私の戦後史

和田正武

 

父の戦死と家族の離別

戦後70年、戦争について、次の世代に何を書いて残すべきか、迷いましたが、結局、私の個人的生活環境をありのまま書く以外ないかな、と思います。これを書いていて、母や伯父や伯母からもっといろいろの事を聞いておけばよかったという思いが強くなりましたが、それぞれのつらい戦争体験は自分限りの事として、あえて他の人に話すことではない、と考えていたのでしょう。ただ、そうしたつらい個人的体験や思い出を残すことが、今求められているということかもしれません。そこで以下に、一庶民が戦後生きてきた中で、戦争の事をどのように感じていたか、思い出を書かせていただきます。

私は昭和19年1月に、職業軍人の次男として生まれました。父は昭和20年9月、中国山西省で、在留邦人の日本への帰還作戦に携わり、事故で亡くなりました。あとには、2歳年上の兄と私とまだ若い母が残されました。父は結局一度も私を見ることはありませんでした。母は、疎開先の茨城県水戸市で、父の計報を受けとりました。すでに終戦しており、無事帰ってくると信じていたこともあり、母の嘆きは、はたから見ていられないほど大きかったと聞いています。私は父の死によって母の実家(祖父母)に引き取られ、養子となり、母と兄とは別れて暮らすこととなりました。母と兄は、東京で、伯母の家族と一緒に暮らし、私は、水戸で祖父母に引き取られました。水戸には、別の伯母家族がおり、夫は元軍医で、公職追放で国立病院を離職、病院を開業していました。そこには従兄姉妹がおり、よく遊びに行きました。母や兄とは、年に1〜2回、水戸で、あるいは東京で夏休みや春休みに会うことがあるという状況で、むしろ水戸の従兄姉妹たちが実の兄姉妹のようでした。一方、父の実家は富山で、なかなか行く機会が無い状況でした。父方の伯母家族は、夫が満州(現在中国では偽満州国と呼ばれます)の関東局の高官だったこともあり戦時中は満州の新京(現在の吉林省長春)で暮らしていましたが、戦後の混乱期に帰還。満州で2人、引き揚げ中に朝鮮で1人、計3人の子供(私にとっての従兄弟姉)を失っています。

私は小学校5年まで水戸で過ごしました。水戸も空襲に会いましたが、幸い母の実家は焼け残っており、そこで、祖父母と、そして小学校1年の時祖父が亡くなり、それからは祖母と2人で暮らすこととなりました。その当時の思い出としては、隣の家は広い庭を持つ大きな洋館で、進駐軍に接収されアメリカの軍人家族が住んでいたこと。そして板塀を境に、華やかな気配が感じられ、此方は大きな声を出したりすることを遠慮して、ひそひそと暮らしていたことなどを思い出します。一方道路を挟んで向かいの家は満州から帰還した大工さん一家が住んでおり、子供が多く、一緒に鬼ごっこや、陣取り合戦で彼らと遊んだこと。貧しい家でしたが、満州風のオンドル(床下暖房)が作られ、冬など暖かい床に寝転んだり、満州風の鍋料理をつついたり、白分の家のように出入りしていました。また、道路に面して仕事場があり、小父さんがカンナ掛けをしたり、大きなのこぎりで木材を切る作業を、しゃがみこんで、飽きずいつまでも眺めていたものでした。終戦後の皆貧しい時代、なにかと助け合って生きていくことが自然に行われていました。そういう意味では、母、兄と別れての暮らしも、それほど寂しいとは思わなかったようです。

 

母の再婚

当時の小学校では、クラスには必ず何人か父親を亡くした子がいました。自分も含め、そうした子供たちは、親戚に引き取られ、母親と離れて暮らす子も見られました。当時、自活して子供を育てられる母親は決して多くはありません。また再婚しようとしても、多くの若い男性が戦死し、再婚は難しいということもありました。結局、親戚に助けられ生きていくことが多かったのです。なお、いざ再婚となっても、子供の扱いをどうするかは問題で、母親の再婚で複雑な環境にいる子も多かったように思います。私の母は、10年ほどして、シベリアから帰った、娘を持つ医者と一緒になりました。母は、兄を伯母に預け、義理の父、娘と一緒に暮らすことになりました。その後、高校の時祖母が東京狛江に家を建て、そこに母と兄、私が移り、父は時々来るという不自然な生活が続けられました。こうして、家庭環境はさらに複雑になりました。今の自分ならそうした環境を十分理解したでしょうが、当時はそのことが良く解らず、義理の父、姉との関係は必ずしも良好というわけではありませんでした。今から考えると、義理の父、姉からシベリア抑留のことなど、もっと聞いておけばよかった、と思います。

 

悲しい初恋

小学校時代の記憶として、少し甘酸っぱいことがあります。小学校4年の時でした。同じクラスに、あまり周りの子と遊ばない静かな女の子がいました。自分には何故か気になる子でした。当時の小学校では、学校でウサギや鶏をみんなで世話をして飼うということが授業の一環でやられていました。鶏は、雛から育てて、親鳥になったら卵を産ませ、ゆで卵にしてみんなで順番に食べる、というものでした。男女一組で、 毎日順番で世話当番となります。たまたま、彼女と組むこととなり、私が鳥にとても関心があったこともありますが、二人で良く世話をしました。他のクラスの子たちはだんだん鶏の世話に飽きてきて、結局、我々二人で世話をすることとなりました。何かを二人ですることが楽しかったのです。羽虫がたかったり、糞つまりになったりと、いろいろなことがありながらようやく卵を産む段になりました。その頃には、「卵を産んだら一緒にたべられるといいね」といった話をするようになりました。また、私が家の庭で転んで手首を骨折し、 ギブスをはめることになった時、彼女は教室で、教科書やノートを机に出したり、鉛筆を削ったりと、積極的に面倒を見てくれたこともありました。その頃には、彼女には父親がおらず母親と2人暮らし、此方も祖母と2人暮らしという境遇が似ていることを知ることになって、お互いどこか仲間意識が湧いていたのかもしれません。

ところが、鶏が卵を産み始めてしばらくし、まだ我々の食べる順番が同ってこないとき、急に彼女から、群馬県の桐生に引っ越すことになったと聞かされました。母親が再婚、彼女は桐生の親戚に引き取られることになったというのです。二人にはこの思いがけない事態はどうしようもないことでした。一緒に鶏を育て、一緒にゆで卵を食べよう、と言っていたのに、それができなくなったこと。そして二人は、確かにお互い好きだったはずですが、そのことを告白することもなく、彼女は転校していきました。今も、桐生という名前を聞くと、自分にはなにか特別な土地という感じで、彼女はその後どうしたかなー、と思います。当時の自分には、与えられた悲しい運命を受け入れる以外ない、ということだったのでしょう。

 

童話「ゆで卵」

だいぶ後の事ですが、高校生の時の国語の先生の影響で、小説の読み方を学び、自分でも小説を書きたいと思うようになりました。そして、その思いは、大学を卒業してからもつづき、思いつくまま文章を書いていました。通産省に就職してイギリスに留学する機会があり、その時良く英語の童話を読んでいたこともあって、自分の小学生時代の体験を「ゆで卵」という童話にしてみました。この童話では、戦争で父を亡くした二人の男女の小学生が、一緒に鶏を育て、次第に自分たちの境遇を乗り越え仲良くなってくこと、しかし、急に女の子は母の再婚で、親戚に預けられ、転校を余儀なくされることがあらすじです。そして結末には、彼女が汽車で桐生に向かうとき、男の子が生みたての卵をゆでて、駅まで駆けつけて彼女に渡す、というシーンを入れています。その卵は大きく、思いがけず双子の卵で、二人で一緒に食べることができました。また、その後、しばらくして彼女から手紙が来て、そこには桐生で元気で新しい生活を始めていること、また父親のインドネシアからの母宛の手紙を母から渡され、そこで、父は死を覚悟し、母には再婚しこれからの自分の人生をしっかり生きてほしい、そして娘にもそのことを伝えてほしいと書かれていたことを知ったこと。そして、彼女は、自分は母の生き方を理解しなければならないと思う、と書かれていました。それを読んだ男の子は、戦争というものが、それが終わった後も残された人たちに、受け入れざるを得ない暗い影を落としていることを感じさせた、としています。

今考えてみると、この童話は決して積極的に反戦を主張しているものではなく、むしろ、与えられた運命を受け入れ、その上で生きていかざるを得ない多くの人がいることを言いたかったのでしょう。

この童話は、他の作品と一緒に童話集として自家出版し、たまたま小学校の先生をしていた友人に見せたら、授業で読んでくれたということでした。

 

大学から通産省へ

小学校5年を終え、祖母と離れ東京に移り住みました。教育のこともあって、東京に住むことが良いと考えられたからのようです。東京では、中学を終えるまでは伯母の家に、母、兄も一緒に同居。母は途中で、再婚、義理の父と娘と住むことになり、兄、私とは別居。高校の時、祖母が狛江に家を建て引っ越し、母、兄、私と暮らすことになりました。そして時々義理の父も現れました。狛江には一時水戸の従兄も東京の大学をめざし同居。ともかく、考えてみれば、不思議な家庭環境ですが、母方の伯母たちには、常に本当の息子のように扱ってもらい、経済的にも助けられ、無事成長することができました。伯母や義理の伯父たちには感謝しきれません。

大学時代の思い出としては、奈良に入りびたり。そこで、茨城県口立出身で奈良教育大の美術史専攻の学生と知り合い、一緒に古墳めぐりや寺社、仏像めぐりをし、いろいろ教えてもらいました。彼は私より3つ年上ですが、同じ茨城出身ということと、彼の父親は海軍の軍人で、フィリピン沖で戦死という境遇の類似性が、どこか気を許すところがあったのでしょう。ほどなく、最も信頼できる友人となりました。彼は、茨城から遠く離れた奈良で自活しながら、日本の仏教美術を研究。ともかく、実践主義。どこへでも出かけ、実物を見ることに徹していました。彼は、その後中学校の社会科の先生になり、豊富な課外教育など実体験させる教育方式をとり、また使用する教材への工夫を怠らず、その努力は素晴らしいものでした。その後、海外経験をしないと現代社会は教えられないと、アルゼンチンの日本人学校へ教師として赴任。現地で、教材資料収集の旅行中に事故に会い死亡しました。生徒に、社会の仕組みを実践的に教えてきた彼の死は何とも無残なことです。あとには、若い妻と幼い二人の娘を残し、残念だったと思います。

通産省の仕事は、戦後復興から高度経済成長の時代。日本経済の競争力強化を図るため、特に欧米に対する技術格差、経済活動の実態を分析し、そこから自分なりの政策を提案、実施していくことは、とてもやりがいのあることでした。この間、特に「戦争」というテーマを考えたことはあまりありませんが、むしろ、日米貿易摩擦、石油危機など経済活動をベースにした国家間の利害の対立、国際紛争の実態ということを垣間見た、ということでしょうか?我々の生活の基盤である経済は、いつの時代でも国際紛争の原因になるということでしょう。平和の維持ということのむずかしさを知らされたことでした。

 

ポーランド

通産省を退職後、帝京大学へ勤務、その傍ら産業政策アドバイザーの仕事でポーランドに3年間駐在する機会を与えられました。この経験は、日本以外の国の、戦争に関連する歴史の現実を日本と比較して考える機会でした。19世紀初め、オーストリア、プロシャ、ロシアという強国にかこまれ領上を3分割され独立を失い、その後の独立への戦い、第一次大戦後ようやく独立を取り戻しますが、再び、第一次大戦ではドイツに侵攻され過酷な支配下に入り、ユダヤ人虐殺も含め多くの人が犠牲になりました。その後ナチスの力が衰え、独ソ間で激しい戦闘がワルシャワで起こり、ワルシャワの市街地はことごとく破壊。最終的にソ連によって解放されることになりますが、ここでも多大な入的被害をこうむります。そして、今度はソ連の共産主義休制の支配下に入り、戦後の復興への努力が始まります。ただ、社会主義体制下の自由の無い生活への不満から1980年代初めに自由化運動がおこり、戒厳令下もひそかに運動は続き、それは世界の社会主義休制崩壊に大きな影響をあたえることとなりました。私がポーランドに赴任したのは、社会主義体制が崩壊し、8〜9年たち、新たな体制建設への調整で苦労している時期で、厳しい現実を実感することができました。ソ連圏からの離脱とEUへの加盟を進める中で、経済的にはEUに飲み込まれて経済の自立性を失っていく現実。経済活動は活発に見えても、自由主義経済の導入により広がる経済格差、地域格差。大量の若い人材の国外流出。19世紀の国土分割以来の、激しい歴史の変化のたびに多くの悲惨な経験をしたポーランドでは、個人体験というより民族としての歴史的戦争体験の大きさを考えさせられることとなりました。なお、ナチズムによるユダヤ人、その他の民族への虐殺という過去の行為を含めたドイツの戦後処理の仕方について、日本との違いを考えさせられたことでした。

 

「大地の子」

その後、帝京大学では、又、思いがけない経験をすることになります。10年ほど前から、大学院で講義を持つようになり、その生徒のほとんどが、中国からの留学生、しかも、東北地方(旧満州)出身が多いこと。その後留学生の論文指導のためたびたび中国に行く機会があり、図らずも、父方の伯母家族が住んでいた吉林省の多くの地域を訪ねる機会を持つことになりました。今では、教え子は中国各地で活躍しており、父が戦死した山西省出身の留学生もいます。その後、中国との共同研究プロジェクトを立ち上げ、現代中国経済にいろいろな形で接触することとなっています。その中で、日中の近代産業の発展プロセス比較というテーマで鉄鋼業をとりあげる機会がありました。そこには、上海宝山鋼鉄の設立と新日鉄の協力という事例があり、それに関連し山崎豊子の「大地の子」を読むことになりました。鉄鋼企業に勤めていた父の仕事で満州で生まれた主人公は、ソ連侵攻、満州国崩壊の中、父と離れて母、妹と満州に残され、日本への引き上げの中、母を失い、妹とは生き別れになります。そして自分は人買いに会って、中国人家族に売られ、厳しい労働生活をしながら何とか生きながらえ、その後隙を見て逃亡。運よく誠実な中国人教師に拾われ、実の子供のように大事に育てられ、大学まで進学、冶金学を学び、鉄鋼産業に就職。しかし、文化大革命等で、大学卒、日本人であることなども理由に過酷な扱いをうけます。ようやく、改革開放政策によって、日本の協力で鉄鋼プロジェクトが進められることとなり、そのプロジェクトに参加し活躍することになります。結局、父とは、そのプロジェクトで再会。ただ中国で育ててくれた義父への思いから自分は中国人として生きることを決意するという話。

 

人の交流

ともかく、山崎豊子の、膨大で詳細な聞き取り調査に感嘆。どんなに多くの人が、この歴史の流れに翻弄されながらも生きてきたかを改めて思い知り、私の父方の家族の満州とのかかわり、また父の中国とのかかわりを考え、今、中国東北地方を中心に多くの中国人と親しくなり、厚い交流の機会を持っていることの不思議を思わざるを得ません。そして、何より、日本と中国との草の根の交流の重要性を考えさせられました。

私はイギリス、アメリカ、ポーランドに住んだことがあり、そこには親しい友人がいて、これらの国は私にとって特別の大切な国となっています。そして、今や中国も特別の大切な国となりました。大切な国とは、「あそこは、彼がいる、彼女がいる、どうしているかな?」という気持ちが持て、彼らを通じてその国を理解しようという気持ちが働きます。これからの時代、人の交流はさらに進み、一緒に何かを作り上げていく草の根の国際交流の機会は増え、それは世界をもつと平和にするのではないかと期待しているのですが…。 その意味で、今も一生懸命いろいろの国の人と草の根の交流を続けています。