そっと忍びよる戦争

和多田雅子

傷痩軍人

1943年7月生まれの私。改めて「戦争の記憶」をたぐってみて、とてもあいまいでおぼろげな、しかも断片的な「戦後の風景」しか記憶していないことに気がつきました。

わが家の近所に割れたガラス戸を紙で張り合わせたままにしている家があり、焼夷弾のかけらが当たったのだと聞かされたこと。しばらくの間お米を買うのに米穀通帳が必要だったこと。電車のシートがボロボロで、中から綿がはみだしていたこと。埃と土まみれの服をまといはだしのままフラフラ歩いている浮浪児(両親も家もなくして放浪している子どもを当時そう呼んでいた)と道ですれちがったとき、そのあまりにすさまじい姿にかわいそうという気持ちはふきとんで、ただただ感じた恐怖心…など。

そうしたなかで、もっとも強烈に脳理にやきついているのが、白装束でアコーディオンを弾いていた傷疾軍人の姿です。

街角や電車、バスの中などでしばしば見かけたものですが、その人の箱にお金を入れる人、見てみぬふりをする人などさまざまな大人たちの姿も記憶に残っています。

あるとき電車のなかで両手の肘から先と片足をなくした白装束の人が床にころがるようにしている姿を見たときは、息が詰まるほどの恐怖をおぼえ、それがしばらくトラウマになったほど。物心ついてきた私にとっては受け止めがたいほどのむごたらしさでした。

どうしてそんなことをしているのか、どうしてそんなことになったのかもわからないまま、時間がたっていきました。そしていつか、めったに思い出すこともない戦後の暗い風景のひとつとなっていきました。

 

「忘れられた皇軍」

後年、大島渚監督の「忘れられた皇軍」というドキュメンタリをみて、あの白装束の人たちの多くが、日本人として徴兵され戦傷を負って戻ってきた在日韓国・朝鮮人であることを知りました。1952年のサンフランシスコ講和条約発効とともに一方的に日本国籍を剥奪され、日本人の元兵士には与えられた軍人恩給を受けられず、まったく生活がなりたたなくなっていたということです。何も知らないまま恐怖心ばかりをつのらせていた自分を恥じるしかありませんでした。

改めて胸がつぶれるような思いでした。なんという理不尽さ…日本という国の本質を思い知りました。

大島監督の「日本人たちよ、私たちはこれでいいのだろうか?これでいいのだろうか?」というナレーションが胸に突き刺さりました。

 

ひな人形

もう1つ「戦争」をイメージする記憶があります。

毎年3月に、ひな人形を飾りながら母が語ったこと。

「注文していた人形店から、材料がなくて作れませんと断られて、忍おばさん(父の妹)が一日問屋街を歩いて、やっと見つけてくれたのがこのおひなさまなのよ」と。

その話を聞くたび、幼い私は、日中街を歩いてひな人形を見つけてくれた叔母の姿を思い描いていました。しかし年を経て私は、1944年3月ころにはひな人形をつくる材料がなくなっていた、日本はそういう状況だったという事実が気になってきました。

ある日ひな人形をつくる材料がなくなっていた…というように、じわじわと少しずつ変化していった戦時下の庶民の生活。それはーつもうーつと徐々に日常生活を剥ぎ取られていくようなものだったのではないか、と想像します。

そしてそれが、私たちがしばしば目にしてきた戦中・戦後の食糧難の悲惨な状況につながっていったのではないか、と。

戦争は一気にやってくるのではなく、目に見えないかたちでそっと忍び寄ってくる…そのことが、いっそう恐ろしいと感じられるようになりました(それは今現在、政権が強引にすすめていることへの不安感と重なります)。

ある資料で、東京で第二次世界大戦下、戦火にみまわれなかった家は20数パーセント、と読んだ記憶があります(この数字は定かではありませんが)。

東京のはずれ世田谷のわが家が戦火をまぬがれたのも、そしてひな人形が残ったのも、ほんの偶然にすぎなかったということです。