今、父を思えば

横山友子

 

軍隊が変えた父の人格

「お父さんは、戦争から帰って来たら、人が変ってしまっていたのよ。」私が小学生のころ、夫婦の諍いで夫に殴られた後、傍にいた子どもたちに母はよくそう言っていました。

父は千葉県の農家の長男だったので、80年前のその時代には「家を継ぐ」のが当然とされていたものの、勉強が好きだったので上京し働きながら学校に行かせてもらったそうです。父の母親である私の祖母にしてみれば、市会議員をし、妻妾を持ち、麹製造と農家の家業一切を自分の肩に背負わせている夫への意地だったのかもしれません。

子どもの時から「専門オタク」だったらしい父は、中学生の時に自分で夜空の星を観察したくて天体望遠鏡を自作したと言っていました。昭和の初めの資材の乏しい時代に、何処から知識や材料を得たのかなど、色々と訊いておけばよかったと今更ながら後悔しています。

学校では物理学を選びカメラ製造会社に就職した後、学友の妹である母と結婚し、1943年に2女の私が生まれてすぐにインドネシアのスマトラ島へと出征したとのこと。「本来ならば理系の人間は赤紙が来ない筈だったのに、何処かで何かの手違いがあったらしい」と父母はその後語っていましたが本当のところは不明です。

オタク人間で、周りの状況を把握する能力が弱かったらしい父は、軍隊の中では「天皇陛下から賜った」物品を仲間の兵隊から盗まれたり、動作が遅いことを理由に、日常的に暴力の対象になっていたらしいのです。

育った家庭環境に加えて、成長期の関心はもっぱら理系の内容であったということもあってなのか、父は30歳といえども、年齢相応の心の成長・成熟が乏しかったと私は想像しています(残念ながら、これは私の知る限りの何歳の父にも該当してしまうのです…)。そんな人間が、戦場には出なくて済んだとは言え2年以上、軍隊という組織に組み込まれていたら、母の言うように「人が変わってしまう」ことも大いにありうるのかもしれません。「以前は穏やかに話し合えたのに、戦争後は、すぐに激昂し暴力をふるうようになった」と母はとても嘆いていました。

40歳ころより「そううつ病」になり、その後の10数年間は、精神面や経済面などで、4人の家族それぞれがいろいろな影響を被りました。今思うと、父は、人としての精神面が脆弱で未成長であったのに、戦争という過酷な状況に置かれたために、発達の順を踏むことが出来ずに歪んだ人格になってしまったのかもしれません。戦争が無くて、普通の穏やかな時間を重ねていられたならば、それなりの人になれたのではないか、とも思うと、恨みを持ち、心通わす話もしてこなかったことが、今となってはとても悔やまれます。

叔父たちのこと

一方、母の弟である私の叔父は、小説にもこの話はあった気がします)。私が中学生の時に、友人から「父親は、南の島で戦死した…」と聞いた時、「不条理」という言葉は知らずとも、そんな思いになりました。「不条理」はもっともっと大きなところに存在していたのに、身近なところではすぐ感じ取れるものです。

もう1人の叔父は18歳の時、秋田で学徒動員されて秋田山中の「尾去沢鉱山」で溶鉱炉の煙突作りのため煉瓦運びに従事したそうで、7年ほど前に一緒に旅行した際にその鉱山跡を訪ねてみました。煙突のあった場所は、今は、すっかり荒れ果てて、私たちには、ただの山中の空き地にしか見えませんでしたが、やはりそこで過ごした叔父には昔の光景が蘇り、ちょっとした構造物の跡を見付けては感慨に浸っていました。自分たちは学生だったのでそれなりの待遇を受けて、仕事後は宿舎の二階で休むことが許されたそうです。しかし、外を眺めていたら、タ暮れになると毎日のように戸板に乗せられた人が運ばれて行ったので、ある時、数人でこっそりと見に行ったら、そこには「徴用された朝鮮人」が死後に捨てられている穴があったと、言葉少なに語ってくれました。

いま、日本軍「慰安婦」が国際的にも大きく問題視されています。この「徴用された朝鮮人」と同様に「その人たちをどう扱って来たのか」がまず間われるべき事柄ですのに、「集め方」ばかりに焦点を合わせ問題の本質をずらし、 ぼかしている卑劣さに怒りを覚えます。

私たちの年代の人たちが経験した生活上の困難…親を失うこと・食糧不足・貧困・家庭環境の歪み・住宅環境などの悪さ、等など…は、親たちが経験したあの戦争に殆ど起因していますし、それを必死で乗り越えて家族を守る親の姿を見て私たちは育って来ました。しかし、今の若者が置かれている困難…就労条件の悪さ・経済見通しの暗さ・原発などの環境問題・了育ての問題、等など…の原因の多くが、私たちが享受してきた経済発展と、そこにばかり価値を置いて来た私たちの生活、少数の人が必死に指摘してきた種々の問題に対する無関心や意識の低さ、なのだと思います。今、70歳を過ぎ、ようやくいろいろな柵が無くなり来し方を振り返る余裕が出来ました。これからを生きる人たちに伝えたい色々な思いは沢山あるのですが、いま、それを伝える難しさを感じています。