貧しかった子供の頃

横澤喜久子

 

「共生」を願って

私は戦後の我が家の状況、当時の生活暮らしぶりを思い返してみることにします。戦後の日本中が困窮していた頃の記憶、子どもの当時にはその生活が当たり前と思って受け入れ、日々を過ごしてきましたが、そうした生活状況を今の若い世代はもちろん、わが子たちも想像すらできないと思います。同世代の方々には誰も経験してきた生活ばかりとは思いますが、次世代の方々に知っておいてほしいと私も書いてみることにしました。

日本は戦争によって負け、全てが破壊され、我が家でも食べるもの、着るものも不足し、貧しい子ども時代を過ごしました。日本中が栄養失調、我が家でも子ども5人分の何もかもが母の手づくり、親は食べずに何でも分け合って過ごしました。私は幼いながら、我が家は貧乏だからモノをほしがってはいけないと思っていました。両親が必死になって子どもを守り、育ててくれたことは肌で感じています。我が家族の父は74歳で35年前に亡くなりましたが、母は今年で100歳、5人の兄弟姉妹は78歳〜68歳と皆、大きな病気もせずに、無事に生き抜いています。戦争の悲惨さを私はまだ幼く、あまり記憶にはありませんが、多くの人々が経験してきた、身近に多く見てきたことを記してみます。

戦後70年、敗戦したことによって日本は戦争放棄してきました。そのお陰でこれまで戦いには加わらず、平和に生きてこれたことに感謝すると同時に、さらに、これからの世代もずっと悲惨な戦争を起こさないように、それぞれが真剣に考え、行動していかなくてはと思います。私はこれまで健康・運動科学の分野を専門とし、主に運動生理学面からいのちを守り、ひとりひとりの持って生まれた力を引き出していきたいと考えてきました。

しかし、こうした専門分野でどんなに深め、進めてみても、大本となる全ての破壊をもたらす戦争が起こるような状況になったら全くの意味のないことです。まず一番に誰ものいのちを大事にし、これまでの70年間のように、誰もが二度と悲惨な戦争には加わらないようにと願うばかりです。人類はいつの時代にも、どこでも争い、戦いを起こしそうなのです。しかし、どんな状況にあっても、理性と話し合いで止めていくのが人間のなすべきことだと思います。強くなること、一番になることを追うのでなく、何としても「共生」です。一人ひとり皆、違うのです。そのために私たちは多くを学び、知性を磨き、違いを認め、誰もが共存し、幸せな一生を過ごせることを求めて生きているのです。世界中が危うい状況になっている今、一人ひとりのいのちを守り、平穏な日々を過ごしていくことのできるように、より一層、平和の尊さを知り、絶対に戦争を起さないように皆で積極的に声を上げ、伝えていくことが大事に思います。

 

敗戦後の生活

敗戦後の私が生きてきた生活環境を思い出してみます。戦争による多くの悲惨なことがありました。70年前、私の住んでいた東京(新宿区下落合)でも多く家々が燃え、大事なひと、モノ、財産を失い、文化、歴史も多く破壊され、焼き山されたのだそうです。戦争によって多くのいのちを奪われ、級友の中にもお父様、ご家族がなくなった方、さらに、浮浪児と呼ばれる子も多くいて、街にはヤミ商売、インチキ商売、盗み、自殺、病気といった生活苦、多くの暗い出来事が日常的にありました。戦後しばらくは新宿、池袋といった駅の近くには傷疾軍人、手を失った、脚を失った人々が白衣姿、戦闘帽、松葉づえで、アコーディオンを弾いて(なぜ、多くの傷疾軍人さんがアコーディオンを弾けたのか、今になって不思議に思います)募金を乞う

姿が多く見られました。

ラジオからは毎日「尋ね人の時間」が放送され、家族の消息を探していました。長い間、舞鶴港から引揚者の帰国ニュースが放送されていました。また、私の家の近くの駅にはタ方にいつも真っ白な衣に兵隊さんの帽子、下駄履き姿の真面目そうで、暗い感じのおじさんが毎日、毎日ヴァイオリンを弾いていました。戦争で頭がおかしくなったのだと噂され、子供ながらに心配で、怖かったことを思い出します。 戦争で多くの人々の生活が壊され、皆、貧しくなってしまったのです。

我が家は両親ともに東京育ちで田舎がありませんでした。実家(新宿区下落合)のあたりも空襲で危なくなり、戦況があやしく、私の出産間近の一年間だけ畑の多かった世田谷経堂に疎開、私はそこの家で生まれたといいます。ますます、東京が危なくなり、長姉(小学校3年生)、次姉(小学校1年生)は学童疎開で長野県の湯田中に疎開したとのことです。子どもの頃、疎開先からの幼い姉たちから手紙、「日本が勝つまでは」と頑張っている様子の手紙を何通か見つけ、泣いた覚えがあります。小学校1年、3年生の子供が疎開先で食べ物もしっかり食べられず、ガリガリに痩せてしまい、親を恋しく、我慢、我慢の日々であったようです。

 

空襲

 東京は1945年3月10日の下町の大空襲をはじめとして、4月13日、5月24日、25日と続く大空襲を受け、その大半が廃燈に帰したといいます。実家のあった目白文化村一帯(下落合)の空襲は1945年4月13日夜から14日明け方であったといいます。B29来襲の警報が鳴り、激しく焼夷弾が集中攻撃、下落合から目白駅まで一面、その空襲で焼け野原に化したといいます。記録によれば、第一から第五ある日白文化村では半数以上の家屋が焼失し、多くの人が焼け出され、焼夷弾が落ちた第一文化村では50何軒かのうち焼け残ったのはたったの4軒といわれます。実家のある第二文化村では、幸いにも我が家のある一区画だけが焼けず、僅かに残ったのです(都市叢書目白文化村日本経済評論社より)。

その焼夷弾による集中攻撃、空襲の最中に出来事です。我が家では3歳前後の幼い兄が「おしつこ!!おしつこ!!」と叫び、やむを得ず、母が幼い兄をトイレに連れて行った間に、我が家にもズトーンと、それまで母と兄が坐っていた座布団の上に不発弾が屋根を突き破って落ちたというのです。まだ20代の若かった母も幼い兄もトイレに立たなければ、あの時に2人は死んでしまったかもしれないと聞いています。母はその落ちてきた焼夷弾のかけらをずっと大事に保管し、見せてくれたことがありました。鉄の塊のようなものでした。その空襲で実家の近所は道路一本先まで丸焼けになってしまったようです。当時、こうした状況でひとのいのちは一瞬にして消される状況だったのです。大切ないのちも脆いものなのです。その後、焼け出された級友も一時、自宅の駐車場やバラック小屋に暮らしていたという記憶があります。

スイトン、ヤミ

戦後、我が家にも食べるものが不足していたことは幼いながら記憶にあります。私の原風景はお茶の間で卓袱台の回りを5人の子供が取り囲み、1,2歳の私が立ちあがっていて「スイトーン!スイトーン!!」と喜んでいる姿かもしれません。我が家は子ども5人を抱え、当時、家族7人を食べさせていくことはさぞ大変だったと思います。戦争中、お米を始め、多くの食物、全てが不足し、ヤミで手に入れる。赤子であった私を背負って、母の持っていた着物を練馬(大泉のあたり)の農家に行っては、お米、農作物に換えてもらった、途中、警官にお米を没収されそうになって必死だったとよく聞かされました。きっと多くの家庭がそのような暮しであったのでしょう。米穀通帳による配給米、食料品等では全く足りず、戦後もご近所の家でヤミ米を分けていただいていく、私も使いに行ったことをよく覚えています。庭にわずか2羽の鶏を飼い、朝にすぐに卵をとりました。ひとつの卵を子ども2人に分けて、ご飯に生卵を混ぜてかけて食べるのですが、分ける時に白身が多くなるか、黄身が多くなるかは子どものとっては大問題、じっと分けてくれるのを見守り続けたものです。我が家では何でも正確に5つに分けなくてはならず大変なことでした(年齢差があったにもかかわらず、5等分でした。お金もなく、さらにお金を出してもモノがないのです。

 

二部授業

公立の小学校も大変だったようです。窓ガラスにバッテンに白い紙が貼られた学校の窓は多くが割れ、(爆音でガラスが飛び散るのを防ぐためだったという)危険な状態だったそうです。疎開から戻った2人の姉たちは近くの小学校があまりに荒れはて、危険な状態であったので、遠く離れた私立の付属小学校に歩いて通うようになったと聞いています。徐々に、学校も復旧し、兄、私、弟は近くの区立小学校に入学しました。私が人学した頃は小学校の一部を近所の中学校が使い、教室が足りずに朝行き、早く帰宅するクラスとお昼近くに登校するというクラスという二部授業でした。

焼け残った自宅の回りのお宅の中には進駐軍関係の住まいに借りられ、外人家族が住むようになりました。何も分かっていない小さい私達、子どもはそこに出入りするMPからのガム、チョコレート、ケーキ、コカコーラ……等を珍しがり、英語を面白がって、喜んでいたものです。貧しい日本人の生活と比べ、テレビ、大きな冷蔵庫、車があり、PXという進駐軍基地内のマーケットには夢のような世界があったことに驚いていたものです。日本中が栄養失調、不衛生状態になりましたGHQによるノミ、シラミ撲滅作戦、アメリカのMPが各家庭にまわり、DDT(白い殺虫剤の粉)を撒いて、(私は隠れ、無事でした〕近所の子供たちの坊主頭が真っ白けになったことを覚えています。

 

脱脂粉乳

日本中が栄養失調、子供たちに栄養をとらせるために学校給食が始まります。まずは1年生の時、週1回、水曜日だけ金色のアルマイトのコップを家から持っていき、脱脂粉乳が配られました。何も知らず、惨めな、つらい思いもせず、私はなんか焦げ臭いような脱脂粉乳をいやがらず飲んでいました。

脱脂粉乳を調べてみると「保存性がよく、蛋白質、カルシウム、乳糖などを多く含んでおり、栄養価が高いことから、戦後しばらく学校給食に用いられた。学校給食に用いられたのは主にユニセフからの援助品である。戦後間もない頃の日本の食糧事情を知ったアメリカ合衆国の市民団体が、日本の子供たちの為に実行した支援だった。保存性や栄養価などを評価されることは多いが、当時の学校給食で用いられた脱脂粉乳の味を知っている者(団塊の世代など)には、これが美味しかったという評は皆無に近い。特に臭いが酷かったといわれるが、これは、当時学校給食に供されたものは、バターを作った残りの廃棄物で家畜の飼料川として粗雑に扱われたものだからで、また無蓋貨物船でパナマ運河を経由した為に、高温と多湿で傷んだからという説もある」とあります。

そのうち、月曜日から金曜ロまでの給食が始まり、工夫され、ちょっとしたおかず、コッペパンにマーガリンのついた給食を食べるようになりました。日本の学校給食はこうした食糧事情の中から生まれたようです。私は通っていた公立の小学校の級友の中にはその給食の一部を「家に待っている妹、弟に」とそっと持ち帰る子がいました。家が焼かれ、バラック小屋から通う子、赤ちゃんを背負って、通っている子もいました。小学校の近くには戦争で両親を亡くした子供のための施設があり、クラスの中に何人か通っていました。私は時々、そこから通う友人に誘われ、遊びに行ったことがあります。当時は何も思わず、一部屋に数人の子ども達がいて、各人にお小遺いの代わりに寮姉さんからノート、鉛筆、お菓子といった券を配られて、小さいながら皆がしっかりと生活し、びっくりしました。今、思うと本当に大変な状況だったのです。親を亡くした子どもたちはそうした施設から学校に通っていたのです。戦争によって家族を失い、ひとりひとりのいのち、生活を奪われてしまった人々が多く出たのです。

 

いのちの大切さ

日本社会では必死になって復興に動き、今ではそうした悲惨な生活も忘れ去られそうに戦後70年を迎えます。私たちの世代は当たり前と思ってきた最も大事ないのちの尊さを次世代に伝えず、これまで忙しい生活の中でないがしろにしてきたのかもしれません。この年月の中、入間がつくり出してきた機械化、科学技術等によって、効率よく、便利にさせてきた生活の中で、日本中が大事なものを忘れてきてしまった気がします。何としても一番大事なことは一人ひとりのいのちです。授かったそれぞれのいのちはどんなに長くても百年です。ひとりひとりのいのちを生かし、全うできる世の中を受け継いでいくことが一番に大事なのではないでしょうか。