私の太平洋戦争

 柳澤 務

 

我々の世代では、還暦は現役を退いてもその直後のことであり、まだ入生の現役モードである。古希となると、現役の一線を退いて一呼吸おき、肩の力を抜いて時間的余裕も得て、生活、思考のスタイルも大きく変わってくる。戦後60年と70年ではだいぶ向き合い方が違う。戦後70年、終戦間近に生を授かった世代には将に人生70年と重なる。

私が中学の頃から父は単身赴任で名古屋、水戸と転勤し、私も家庭を持って自分のこととして正面から戦争を捉えてみようと思った年頃には、他界していて詳しい正確な情報を得ることもなかった。父は、戦地に行くこともなく内地で化学、航空機関連の会社勤めを続けていたが、そんなことで戦争体験や戦後の苦難の話の特別の材料は持ち合わせていません。しかし、せっかく勧めてもらった機会なので、社会で歩んできた70年をふり返ってみて、第二次大戦との関わりを思いつくまま綴らせて頂きます。

現役を退いて最近は意識することもなく気が付いてみると鹿児島の知覧、シベリア抑留者の日本人墓地、慮溝橋の中国人民抗日戦争記念館、舞鶴の引揚記念館、昨年はアウシュビッツ等を訪ねている。欧州では太平洋戦争ではなく第二次世界大戦であったと考えさせられる機会となった。

 

戦時体験・見聞

私は昭和18年5月に誕生して以来、世田谷の奥沢に住んでおり、これまで生活の環境に格段の大きな変化はなかったかもしれない。今もその近くに住んでいる。戦争の記憶と言えば、いくつかのスポット的場面がおぼろげながら浮かぶだけである。母の背中に負ぶわれて庭に掘った防空壕に入ろうとする場面と灯火管制で天井から吊り下がった電灯に黒い布のカバーがかけられ、食卓の所だけが仄かに照らされていた場面ぐらいである。明暗の切り換えが記憶に残りやすいのかもしれない。

終戦前は、母の実家の京都舞鶴に母と疎開していた。わざわざ軍港の舞鶴に疎開したのは、やはり実家の便宜と地域社会の助け合いを当てにしたのであろうか。その間、東京の父の中野の実家は、昭和20年の東京の継続的空襲に遭い焼失した。持ち出せたものは叔母が仏壇から取り出して背のうに詰めた過去帳のみであったという。幸い死傷に遭う者もなく、 私の父母には家があったので、祖母らはここに身を寄せ、その後祖母は一緒に暮らすことになった。母の方では、母の兄や祖母の実家には多くの軍人の兄弟がいて中国や東南アジアに赴いた。よく聞かされたのは、祖母や祖母の母は毎日裏山に登って神社に参拝して、一心に無事を祈願し、幸い全員帰還できたということだ。祖母は日蓮宗にも深く帰依していた。そんな祖母からは、決して強要はされなかったが信心深い生き方を示してもらった。母の兄は戦地で大腿部に貫通銃創を負ったが、帰国後、壮健で高校の数学教師に就いて若者の教育と日本の歴史の勉強に93歳まで没頭していた。戦火で失った同朋への思いを胸にしまって多くを語らずひたむきに生きていた姿を思い出す。

戦後間もなくだろうか。食料事情が厳しい中、母が一人リュックを背負って調達している姿を記憶しているが、母の父の実家が茨城であり、随分都合をつけてもらって比較的恵まれていたようだ。茨城の親類が来宅して家の縁側で家族と撮った写真が残っている。栄養のためといって牛乳を買い求めて町中を母と歩きまわったこともあった。東京では、国鉄の横須賀線、京浜東北線には、横浜近辺との往来のためか、進駐軍専用車として最後尾に白帯の二等車が連結されていたのを月にした。一方、駅頭では白衣姿の傷疾軍人がアコーディオンを奏でていたのにちぐはぐ感を覚えた。

数年前に訪ねた南九州の知覧は、妻の親類が特攻として飛び立った所だ。美しい開聞岳に別れを告げ大空に小鳥のように舞い上がった様子を思うと何とも切なく胸が詰まった。

 

シベリア抑留

社会に出て、技術屋として現場、現物を基本とする姿勢を重視してきた。そんなことで今振り返ると第二次大戦に係る場所にも随分足を運んでいる。中央アジアのカザフスタン、モンゴルに業務や旅行で出かける機会があった。カザフスタンでは昔の首都アルマティのはずれにある日本人墓地に案内された。清掃もされるようだが、訪ねたのは4月末、草が生い茂り遠い異郷の町はずれに人知れず眠っているようだった。厳寒状況下で満足な食事、休養も与えられず、過酷な労働を強要されて多くの抑留者が死亡した。シベリア鉄道の支線バム(バイカル・アムール)鉄道の建設では「枕木一本に人柱が一本立った」とまで言われたという。1947年から日ソ国交回復の1956年にかけて47万3000人が帰国できた。過酷な労働を強いられる一方、共産主義の教育も行われ、革命、階級闘争の思想も育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせることもあったという。武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背くもので、1993年、エリツイン大統領訪日の際になって謝罪表明された。

何でこんなことを知らなかったのか無性に腹が立った。後で調べてみると、私の歴史の勉強は高校時代で停止しているのだが、当時の日本史の参考書が見つかったのでページを繰ると、ソ連参戦以外の記述はなかった。シベリアからの帰国が1956年まで続いたということは、当時はまだ真相の全貌の解明が十分でなかったからではなかろうか。アルマティは、ヘミングウェイの妻メリーが「世界で一番美しい街」と呼んだように、日本の緑豊かな地方都市を思い起こすような風情があり、そんな中、望郷の念を抱いて眠っているのにやりきれない思いでいっぱいになる。

その後に、モンゴルを旅する機会があったが、首都ウランバートルには、 立派な日本人835柱の慰霊碑が花壇に彩られた美しく整備された慰霊公園にある。ここにも、壮絶な気候、過酷な生活環境の中で十分な装備も設備もないまま重労働に従事し、伝染病、寒さ、精神的ストレス等、様々な要因で祖国を想いながら力尽きた日本人の霊が肥られている。公園の小高い丘の途中にひっそりと人の丈くらいの古い石碑が立っている。1947年、引き揚げる際に、志半ばで命を落とした同志のために日本人抑留者たちが建立したものだった。引き揚げるときの心情を思うと何とも胸が痛む。

ある時、舞鶴引揚記念館の案内が目に留まり立ち寄った。舞鶴港は小学時代に興安丸が引揚船として中国やナホトカからの引揚者が最初に祖国の上を踏んだ所と報じられていた。当時は、シベリアでそんなにも過酷な生活を強いられていたとは全く知らなった。また、新宿駅西側の住友ビルには、48階に平和祈念展示資料館の案内があった。ここにも シベリア抑留の展示がある。これらの資料・記念館にはシベリア抑留の想像を絶する極限状況が再現されている。戦争の不条理さに目がくらくらするいたたまれない経験をした。

さらに、ある時、黒を基調とする油絵でないと描けないような力強さをもった一枚の絵に出会った。抽象的であるが魂が揺さぶられるような訴える力に引き込まれた。それが何とシベリア抑留を経験した香月泰男という画家の作品だった。その出会いに因縁的なものさえ感じた。このようにたまたまの巡り合いによるシベリア抑留との関わりが続いている。

 

『敗北を抱きしめて』

友人から米国の歴史家、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を奨められた。GHQ占領期の日本人について書かれた上下巻合せて1000ページに及ぶ大作である。米国で1999年に刊行され、ピューリツアー賞を受賞し、訳本が出版されているが、アメリカ最高の歴史家が描く20世紀の叙事詩と紹介されている。この著作から現行憲法成立のプロセスを引用をまじえて紹介する。

・「内閣の憲法調査会の起草案が国民に噌笑われたのを機に、GHQは大胆にも秘密の?憲法制定会議Wを招集した」

・「日本の委員会メンバーは、アメリカの憲法思想を支えている法的、哲学的原理をまったく把握できず、しかもそれについて尋ねることさえ拒否した」

・「アメリカ人が人民主権や人権を重視していることにはほとんど興味を抱いていなかった」

・「マッカーサー元帥は、日本国民のために新しい憲法を起草するという歴史的な意義をもつ仕事を民政局に委託した」

・「マッカーサーが日本の憲法に欠くべからざるものとした三原則は、天皇の元首の地位、封建制度は役割を終えると共に…日本は自国の紛争解決のための手段としての戦争、更に自国の安全を保持する手段としの戦争さえも放棄する。日本は、その防衛と保護を、より崇高な理想に委ねる」

新憲法の作成スケジュールは1946年2月4日に部下が招集され、2月12日完成でマッカーサーの承認を得るものであった。それは極東委員会の活動開始や日本側の憲法草案はGHQに提出されておらず、非公式会議が迫っていたことから、わずか一週間での作成が指示された。終戦直後の空白時期に、様々なしがらみに乱されないよう理想を追い求めたものと言えるのだろう。

・「まったく斬新な考えを恐れずに日本で試してみようという人々によって運営されたことは健全で好ましいことだった」

「理想主義的な精神、つまり抑圧を取り除き、 民主主義を制度化するために、自分たちは特別な任務に就いているのだという共通の感覚」

・「外国の憲法を集めるためにいくつもの大学図書館を訪れた」

 

東京裁判関連で関心を持った箇所を引用する。

・「日本人からみれば東京裁判にソ連が列なっていることこそ、勝者の裁きのとんでもなく不可解なところだった。ソビエト連邦が平和と正義のモデルだったとは言えなかった。ソ連は極めて明らかな偽善の罪を負っていた」

・「日本は神聖たるべき条約義務に違反した罪を間われたが、ソ連こそ裁く側にまわる資格を得たのは戦争の最後の週になって日ソ中立条約を破ったからに ほかならないではないか」

・「日本による民間人や捕虜に対する残虐行為の他に、同時に満州で赤軍が民間人を虐待していたことも知られていた」

・「裁判中も何十万人もの日本人捕虜が消息不明とされたままソ連に捕えられていた。ソ連で抑留されて死んだ捕虜の数が、日本の捕虜となり悲惨な死を迎えた米英連邦の捕虜よりはるかに多かった」

・「アメリカに対しては、ダブルスタンダードとして、特に原爆投下は、”人道に対する罪Wにあたる」、「手段が目的によって正当化されるならば、原爆使用が戦争を終わらせたとして正当である」

・「東京裁判でのインドのパル判事は、アジアの戦争でナチスによる虐殺に匹敵するのは、米の指導者による行為であった…原爆投下は戦争法に違反していた…」

・「連合国は、日本の都市を焼き払い、原爆まで投下し、日本の指導者を裁く道徳的資格があるのか」

 

次第にアメリカは反共の目的の下、欺瞞的態度になっていく。

・「日本人の多くは、裁判で暴露された犯罪、暴力に狂った世界で、このような平和と人道に対する罪を犯したのは日本だけではないだろうという認識とがないまぜになって、敗北と共に抱いた軍国主義と戦争への嫌悪感を強くした」

・「裁判によって、平和と正義がいかに脆いかが明らかにされたからこそ、それを大切にすることが一層重要になった。その理想を不動にしているのが新憲法の『戦争放棄』の規定であることは言うまでもない」

 

このように見てくると、戦争は社会を混沌とした秩序のない不条理な世界へ導くのであり、正義を大切にする人類の存在を否定することにしかならない。

元オスロ国際平和研究所長のヨハン・ガルトウングという専門家は、日本は九条を「安眠まくら」にしている。「安眠まくら」はもはや存在しないことを白覚すべきだと言っている。憲法九条、不戦条約に対しては、時代の変遷に正面から向き合い、その精神、理念を貫き通す諸々の方策を絶えず具体的に明示、共有すべきことへの警鐘を鳴らし続けることが重要なのだろう。

 

わが歩み ―― 核兵器廃絶への思い

小学校4、5年の頃、東京での小規模な広島原爆展に連れて行かれ、写真や遺品等が無造作に並んでいたのを見て、衝撃的な悲惨さに後ずさりするような背走感を覚えたのを記憶している。中学に入ると水戸に単身赴任していた父に連れられて東海村の原子力研究所の我が国初の原子炉JRR−1を見学し、原子力の平和利用への昂揚を覚え、高校時代には教育テレビでの初代科学アタッシェとして米国に滞在し、帰国された向坊隆先生(東大助教授)の話で、核分裂連鎖反応の新鮮さと共に原子力発電といっても高圧蒸気を作るだけかと落胆したように思う。そんな中、いつしか原子力進学の入り口に導かれていた。

原子力の利用研究は、米国の原爆開発のマンハッタン計画からスタートし、1953年にアイゼンハワー米大統領による国連での演説「平和のための原子力」により平和利用の道と共に軍事利用を防ぐしくみを確立する提案がなされた。ここで、原子力平和利用のパンドラの箱が開けられた訳だ。1970年には核拡散防止条約(NPT)が締結され、核兵器保有国を5ケ国(米、ソ、英、仏、中)に限定して、それ以外には核兵器を禁ずる条約で、不平等、差別的であるが、これ以上核兵器保有を増やさない点で実効性がある。インドは最大のライバル中国の核実験成功に対抗し核武装に踏み切った。国連は核兵器の使用などの違法性について国際司法裁判所に見解を仰ぎ、裁判長(アルジェリア出身)は、1996年に「核兵器の使用などは人道法違反」であると決定した。しかし、それには勧告的意見が添えられ下記・項が併記された。

@核兵器の使用などは一般的に人道法違反である

A国家存立に関わる自衛の極限状況では合法か違法か判断できない

文民は標的にしない、兵士に不必要な苦痛を与えてはならないという国際人道法上からは核使用などの違法性は高い。一方、国際法は国家の自衛権を認めているので矛盾しているが、解決には核廃絶しかない。唯一の原爆被爆国である日本は、核兵器廃絶のリーダーとなり、「核兵器は国際法違反」とし、核廃絶実現へのプロセスを明示する努力をすべきだろう。

世界では、平和利用の名の下に軍事利用を計画していると懸念されている国も含め様々な国がある中、核廃絶は容易ではない。我が国は世界の原子力平和利用の枠組構築に貢献し、軍事利用への道を狭めていくことが現実的な道であろう。原子力の秘めた力を活かすよう育てていくことを夢見て、原子力研究開発に身を投じた以上、軍事利用を遠ざける道を太くしていく原子力エネルギー利用の姿を構築していくことに些かでも寄与できたらと願っている。それが核兵器廃絶につながっていくことを信じて。