ミンダナオ島で死線をくぐりぬけた父

宮後康恒

 

明らかに私を身に宿す母が父と二人で撮った写真がある。父は軍服で帯刀し、母は着物である。1943年の冬平壌へ向かう前のもの。私は半年後の8月に生まれる。その直前父は駐屯地から祖父に手紙で男女各3名の名を挙げるも祖父によい名をと頼む。この写真と手紙は母の遺品から出てきたものでこれに加え南方の島から父が文字の読めぬ私宛に出した便りが2通ある。

さて戦後70年の今、当時を辿るには時空を超える手立てがいる。手元に山川出版の『世界史総合図録』がある。ヨーロッパ戦線と太平洋戦線が並ぶ頁に目が止まる。前後の頁の年表には開国から明治、大正、昭和に至る90年余りを戊辰・西南の内戦を経ながら列強に伍し日清・日露、第一次大戦から敗戦まで国を挙げて突き進む様が如実である。戦(いくさ)に明け戦に暮れる。

日韓併合が1910年。以後朝鮮は大陸侵攻の橋頭保扱い。冒頭の写真の頃既に国は敗色濃厚で、精鋭部隊を対ソから対米の南方防衛に回さざるを得ない陸軍は、1944年父の部隊をミンダナオ島に派遣する。予知した祖父は死地に向うまでに息子に孫の顔を見せよと祖母と母、叔母の3人で生後半年の私を関釜連絡船で朝鮮に行かせた。ミッドウェー海戦、ガダルカナル陥落と米国の反攻は1942年に始まる。ミンダナオ島からの便りは、1944年に葉書で出され軍事郵便扱い、一隅が切除された文面にはバナナもあり生活に困らず、俸給の使い道もなく日本に送るので何か買ってもらい、祖父母にも気遣い忘れぬようと。米軍の艦砲射撃と上陸が始まるのはこの後すぐ、ジャングル逃避行が一年近く続き1945年秋投降。2通目は1946年冬、レイテ島の捕虜収容所からで、ライスペーパー両面にインクの文字が並ぶ。米軍の病院気付だが将校扱いの収容所ゆえ心配無用、送還の便船が近々決まると。率いる中隊の部下を殆ど失い、生きて虜囚の辱めを受けずと自決を命ずる上官の連隊長を説得したと父から聞く。

大雪の日お堀端のビルにマッカーサーがいると父が指差したのは1951年2月と今その記憶を検証する。同年9月サンフランシコ講和条約と日米安保条約が調印。何故このとき学校を休み伯父の見舞と称し大阪から東京に行ったか理由は訊かず仕舞い。ミンダナオでの戦いや捕虜生活の話は何度か聞いた。戦後の混乱期家族を守るために働き、押しつけの民主化で労働組合の委員長もやったと自嘲する父であったが反戦、反米を口にはせず。愚痴るより先を考えろと幼い頃論された記憶あり。東京に住み落成した武道館を見に行くが、傍らの靖国神社には行かず。A級戦犯合祀の前である。

前年に日中戦争が始まった1938年には休職し見習士官集合教育を豊橋で受け、応召に備えた。レイテ島からの手紙に国のために捧げたこの7年は何だったのかともあった。靖国に足を向けない心中を思う。父は帰還後20年で逝ったが戦友が集うミンダナオ会の元部下は慰霊に訪れた島の写真を母に送ってきた。