戦争のもたらすもの  −− 被害と加害を見つめて

三井斌友

 

父の召集とボルネオ戦

私の父母は1942年3月に結婚した。父は30歳、母は19歳であり、東京府中野区桃園町に居を構え、44年3月に私が生まれた。折しも父は東京第二師範学校(現在の東京学芸大学の母体のーつ)の教員となったが、それも束の間、5月に臨時召集(いわゆる「赤紙召集」)で金沢の陸軍東部第49部隊に入営した。新妻とまだ生後数か月の私を残しての入営は、本当に後ろ髪を引かれる思いであったに違いない。実際、92年3月に弟・妹とで、熱海・伊豆山温泉に父母を招いて金婚の祝いの席を設け父は上機嫌で思い出話を語ったが、そこで「子供が生まれて1ケ月で『赤紙』が来てしまった。入営のために新宿駅を発つとき、伯母だけが見送りに来てくれたが、子供をおぶった妻を見て、『こんな可愛い坊ちゃんがいるんだから生きて帰って下さいよ』といいながら、自分がわんわん泣いている有様で、僕も本当に生きて帰ることができるか惨惜たる気持ちだったが、何としても生きて帰らなければと意志を固めた」と述べていた。

このあと、翌年1945年8月の敗戦までの父の軍隊生活は、他の大多数の兵士がそうであったように辛酸を極めた。新兵教育のあとまず向かわされたのは中国東北部、日本が虚構の満州国を作って支配していた地域である。ここでは「関特演」(関東軍特種演習の略。注1)以来、大兵力を集中させていた、その補充部隊である満州第414部隊に配属されたのである。しかし、西方の独ソ戦線でナチスは敗走を始め、「関特演」の意味は失われ、日本の南方・太平洋地域での戦線が苦境を呈するなかで、大本営は関東軍の部隊を次々と南方に送り始める。その一環で、8月、独立混成第25連隊に転属させられた父の属した部隊も輸送船に載せられて、ボルネオ島をめざした。輸送船はボルネオを目前にして米軍の攻撃を受けて沈没、兵士たちはほとんど着の身着のままで島に上陸を余儀なくさせられる。しかし、戦争はまだ継続しているので、何のことはない、ボルネオ島のジャングルの中を連合軍に追われて、ただ逃げ回るだけに到着したようなものである。もちろん兵姑も途絶えているから、食糧はほとんどなく、野生の動物・植物をとって食うという悲惨な逃避行が始まる。栄養不足の上に、マラリヤなど熱帯性の流行病も多い土地であるので、兵士はバタバタと倒れ、敗戦・降伏時の生存率は10%にも満たないといわれている。

そうした悲惨な戦線で父が生き延びることができたのは、奇跡的と言えよう。「生きて帰る」という強い意志がそうさせたのかもしれないが、とにかく私は戦争遺児になることを免れることができた。前述の金婚の祝いの席では、この時の経験を父は次のように語っている。

「ジャングルでの600kmの行軍で10人中生きて帰ったのは1人くらいという、惨めな状態だった。本当に命の危険を感じたことは4度あった。無茶苦茶に撃ってくる米軍の激しい銃火を浴びて、同じ部隊の、金子という同郷の准尉と一緒に横穴に飛び込んだが、銃弾で壁がどんどん崩されてゆく。『ああ、これでお終いか』と思ったとき、准尉が恐怖から穴を飛び出し、たちまち銃弾に当たり、肩からバァーっと血を噴き出させて死んでしまった。穴のなかに残っていた僕は生き延びることができた。こうして部隊の7千の同僚は野垂れ死に同然で死んでしまった。こんな苦しい状態だから、腰に下げている手榴弾のピンを抜けば楽になるかもしれないと考えたときもあったが、同じことを考えるものもあって、前方でバーンと爆発音がして、ばらばらになった肉片が降ってくるんだ。こんな悲惨な目はいやだと思い直し、歩き続けて帰ってきた。やはり『生きて帰る』という強い意志をもったものだけが生き残った。自分で自分をコントロールする意志の力だ。僕もその意志の力で生き延びることができた。生きて帰ってきて本当に良かったと思った」

ボルネオ島北部のボーフォート(Beaufort、現在マレーシア・サバ州の町)で終戦を迎え、日本軍は武装解除され、父はオーストラリア軍が管理する捕虜収容所に入れられる。ただ、そのまますぐに帰国・復員とはならなかった。日本軍の降伏を受け入れた各地では、降伏条件であるポツダム宣言に基づき、戦争犯罪人の追求、裁判が行われる。その法廷で日本側通訳を務めるという新たな仕事を割り当てられてしまったためである。これも辛い役目であったが、ようやく46年7月に帰国、復員し、原職に復帰することができた。

 

戦犯裁判

戦争犯罪に対する国際裁判といえば、ドイツにおけるニュルンベルクと東京での極東軍事裁判が著名であるが、ここではヘルマン・ゲーリング、東篠英機などA級戦犯を裁いたが、B・C級戦犯を裁く法廷は各地に設置され、そこでも多くの戦争犯罪が暴かれると同時に、数々の悲劇も生じた。ここでは、学徒出陣によって陸軍に入営し、シンガポールにおける戦犯裁判で死刑に処せられた木村久夫(きむらひさお)の例を述べよう。

学徒出陣とは、1943年10月政府による「在学徴集延期臨時特例」公布によって、在学中の学生が召集され、陸軍・海軍に人隊したことを指す。当時、大学など高等教育機関に在学する学生は20歳の徴兵年齢に達しても猶予を受けることができた。主として文系学部の学生に対してこれを撤廃したのが「臨時特例」である。日本の戦線が拡大し、膨大な軍隊を動員してゆくなかで、下級将校など軍隊幹部の不足が深刻となり、これを補うために学生に目を付けたというのが真相であったと推定される。この措置によって全国の国公私立大学・高等専門学校から徴集された学生の総数は相当な規模であったはずだが、殆どの大学・高専にその記録がなく、正確な人数は未だに不明のままである。いずれにしても数万人の学生が学業半ばで学窓を去り、ペンを銃に替えて、戦地に赴くことになった。43年10月21日東京・神宮外苑競技場では「出陣学徒壮行会」が開催され、東条首相による訓辞のあと、出陣学徒代表・江橋慎四郎(東京帝国大学文学部学生)による答辞には「生(せい)らもとより生還を期せず」の文言があった。その通り多数の出陣学徒は再び学窓に還ることができなかった(江橋白身は幸運にも生還するが)。

木村久夫の手記

戦後、学徒出陣あるいはそれ以外でも大学・高専卒業生で戦地に没したものの手記を編纂し、再びこのような悲劇が起こらないよう決意を示すため「戦没学生の手記」出版が相次いだ。その最初は47年刊行の『はるかなる山河に――東大戦没学生の手記』である。これを全国規模に広げ、49年10月に『きけわだつみのこえ――日本戦没学生の手記』が出版された。全国の戦没学生の遺族から寄せられた1209名の手記から選んで75名のものを収録している。この手記集を題材とした映画『きけわだつみの声』(50年6月公開、東映製作、関川秀雄・監督)や彫刻『わだつみの像』(本郷新)も知られている。木村久夫による手記は、『きけわだつみのこえ』の中でも特に印象的・衝撃的である。紹介されている木村の略歴は、1918年4月大阪生まれ、42年4月京都大学経済学部入学、43年10月入営、46年5月23日シンガポール ・チャンギー刑務所にて戦犯刑死、当時陸軍上等兵であった。手記は処刑をまつ刑務所のなかで、田辺元著『哲学通論』の余白に書き込まれ、死後遺族に返還された。日本戦没学生記念会監修『きけわだつみのこえ――日本戦没学生の手記』(光文社、64年 注2)からその一部を引用しよう。

 

日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてしてきた数かぎりない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今、私は世界全人類の気晴らしの1つとして死んでいくのである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。

あらゆるものをその根底より再吟味するところに、日本国の再発展の余地がある。 日本はすべての面において混乱に陥るであろう。しかし、それでよいのだ。ドグマ的なすべての思想が地に落ちた今後の日本は幸福である。「マルキシズム」もよし、自由主義もよし、すべてがその根本理論において究明せられ、解決される日が来るであろう。日本の真の発展はそこから始まるであろう。すべての物語が私の死後より始まるのは悲しいが、私にかわるもっともっと立派な頭の聡明な人が、これを見、かつ指導していってくれるであろう。何と言っても、日本は根底から変革し、構成し直さなければならない。若き学徒の活躍を祈る。

しかし国民はこれらの軍人を非難する前に、かかる軍人の存在を許容し、また養ってきたことを知らねばならない。結局の責任は、日本国民全体の知能程度の浅かったことにあるのである。知能程度の低いことは結局歴史の浅いことだ。2600余年の歴史があるというかも知れないが、内容の貧弱にして長いばかりが自慢にはならない。近世社会としての訓練と経験が足りなかったといっても、いまではもう非国民として軍部からお叱りを受けないであろう。

私の学生時代の一見反逆者として見えた生活も、全くこの軍閥的傾向への無批判的追従に対する反発にほかならなかったのである。

以下二首処刑前夜作

おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかん

風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でなん

戦没学生の手記の収集・出版は実は先行例がある。世界史上初めての総力戦となった第一次世界大戦では、ドイツ帝国がやはり学生の戦線動員を行い・敗戦後「ドイツ戦没学生の手織」が編纂された・しかし、その不戦の意味も空しくドイツ(ナチス・ドイツ)は再度世界大戦を引き起こし、ドイツは再度「戦没学生の手記」を編纂する羽目に陥るのである。こうした、”歴史の繰り返し”を許すか、許さないか、それは現在を生きているすべての人々に課せられている問題である。(2015年4月)

注1  関東軍の「関東」とは、東京を中心とする関東地方を意味するのではない。中国・河北省の山海関より東という意味で、遼東半島先端の租借地に名付けられた関東州に駐在する日本陸軍部隊の名称であった。日露戦争後に日本が獲得した関東州における権益保護を目的として1919年設置されたが、逐次拡大され、満州国創設ののちは、その「首都」新京(現在の吉林省長春)に司令部を移し、事実上満州国を牛耳り、数々の独断専行の軍事行動によって15年戦争への道を開いた。41年6月ナチス・ドイツとソ連との間で戦端が開かれると、日本の戦争指導部は機あればシベリアからソ連に攻め込むべく、満州国に駐留していた関東軍に70万人以上の動員兵力を集中した準備行動。企図秘匿のため「特種演習」の名称をつけた

注2  これら戦没学生の手記の思想史的研究は、21世紀の現在も続いている。たとえば大貫恵美子著『学徒兵の精神誌』(岩波書店、2006年2月)。

注3  『ドイツ戦残学生の手紙』(岩波新書赤版R−22、1938年11月)

参考 田代二良著・秋谷徹雄編『インパール作戦敗軍行』(本の泉社、2000年7月)