戦争が遺した名前

水野加南

 

幼年・小学校時代

私は1943年12月生まれ。まだ日本は戦争に勝っていて、南の島をドンドン加えていました。それで加南という名前。同期生には南海・勝子・征夫など戦争由来の名前の人が沢山。

父が小学校の教師だったため出征せず、また父の親が郷里で農業を営んでいたため、ほかの方に比べ食糧に恵まれていたと思います。それゆえ、ほかの方より戦争の記憶が薄いように思います。みなが食事に食べるスルメをおやつに食べていました(今のように甘いお菓子は皆無)。そのため(?)虫歯が1〜2本しかありません。

父の郷里(兵庫県浜坂市)に疎開。学齢前に兵庫県尼崎市に疎開地から転居。キリンビールの工場のあるところで、小学校の生徒は窓から出入りするようなところ。教育環境が悪いとの判断で隣の兵庫県西宮市の新設校に兄と私を入学させるべく、母がその学校に赴任。

兄がそこへ入学。私はまだ幼稚園生。学校帰りにお米の配給切符を持って、お米を米屋にもらいに行くのが兄の仕事。あるとき切符を紛失。今でこそ米はスーパーでも買えますが、当時は米は配給制。数量に限りがあるから、配給切符がないともらえない。切符紛失したので我が家は米なしの生活を余儀なくされました。

西宮では母の同僚の家の二階を間借り。二階から西宮球場がみえました。

翌々年、私が小学校入学。担任は代用教員。母も1年生担任。母は師範学校卒。「代用教員と師範学校卒での先生で差がある!」と思いましたが、母は気にもとめていなかったようです。私は以後小学校4年まで、担任は代用教員でした。

 

東京へ

昭和26年に、父の仕事の関係で東京へ転居。東京駅から乗ったタクシーは木炭車。ちなみに上京してすぐかかった歯医者が、当時すでにブラッシングをうるさく言っておられたのですからすごい。そしてすでに矯正歯科の勉強もしておられたようです。今もこの歯科医院に通院していますが2代目。今は定期的にクリーニングに通院。80歳・20本は可能とのお墨付き。「歯並びがいい」と歯科衛生士に褒められます。「歯並びがいいからクリーニングが楽」とも。楽でもクリーニング代は安くならない。歯の本数が少ないと安くなるとか。床屋は髪が少なくても料金安くならないけれど。

小学校2年生で東京の学校に転入したわけですが、授業は二部授業。午前中下級生。午後上級生という制度。教室が不足していたゆえの制度。

給食はララ物資の脱脂粉乳。給食のおばさんが焦がしたときは焦げ臭くて困りました。コーヒー味の時は人気でお代わり続出、それにコッペパンとおかず。肝油ドロップも。まずくて飲みにくくて。最近読んだ本(2歳くらい年下の人が書いた本)では肝油ドロップに砂糖がまぶしてあったとか。給食は次代を担う若い世代の体をおもんぱかって始まったのだとか。

同級生には親を戦争で亡くした人が沢山。母が担任に「娘が勉強しない」と言ったら「両親そろっているだけで幸せと思いなさい」とさとされたとか。

洋服はつぎを当ててきていました。貧富の差といいますが当時は皆が貧しかった。ナイロンのストッキングは大学生になっても高級品。伝線をつくろってくれる商売がありました。大学生の後半の頃にノンランという伝線しないストッキングが登場。

中学校の校舎は兵舎だったもの。床に穴が開いていました。ダニも出ました。そういえばダニ・ノミ・シラミ駆除のために頭からDDTを振りかけられましたね。

中学生の頃にはもうあまり戦争(戦後)を意識することはなかったように思います。ただ同期生の伝記を読んだときに「高校生の時に、父が舞鶴に帰ってきた」というのを読んで、「アーこの人は、私と違って、高校まで戦争は終わっていなかったんだ」と思いました。

高校時代、校門の前で配られる予備校などのチラシの裏が白いと計算用紙に使えるので、うれしかったですね。今の子供はわざわざこれのために紙を買うのでしょうね。私は今でも沢山メモ用紙があるのに、広告の裏の白いところを使っていますね。