私の戦後70年

藤岡武義

 

満鉄技術者の父

私は昭和18年6月、旧満州新京特別市(現長春)で生まれた。

父は満鉄の技術者。就職の選択肢としての満州は、大学は出たけれどの就職難時代に内地で職を得られなかったためか、満洲での雄飛を求めてのことか、は聞き漏らした。当時の満鉄といえば国策の大会社、植民地での生活ということもあり、今でいうメイド付きの社宅生活でなにーつ不自由ない、と言えるものだったようだ。

10年ほど前に、兄弟で旧満州旅行をした際に訪ね当てた社宅の建物はまだ現存しており、石造りのメゾネットタイプの我が家は、現在6所帯が住んでいると聞いた。住民の方々は我々のことを聞いても、ひそかに恐れていた反発を示すことなどなく、親しみ深く迎えてくれた。

ソ連参戦後、満鉄の本社社員の家族は、北朝鮮のチンナンポというところへ半年ほど疎開させられた。1年生の長女から乳児の次女(妹。わたしは2歳)まで2男2女の4人を1人で連れていた母はさぞかし不安であったろう。当時私は消化器が弱く、いつも下痢をしていたらしい。父は敗戦後再会したとき、次男(わたしのこと)だけは生きていないことも覚悟していた、という。

終戦後2年間、旧満鉄の技術者として列車運行のため父は徴用されていた。ソ連軍に眉間にピストルを突きつけられて、軍用列車のダイヤグラムを組まされたときは冷や汗をかいた、とよく言っていた。すでに中国の覇権をめぐる国共内戦は始まっており、長春も戦場だった。国民党軍と八路軍の長春争奪戦は毎日支配者が変わるほどのつばぜり合いで、父が市内に買い物に行ったとき、往きと帰りで支配軍が変わっていたこともあったという。父は、共産主義は嫌いだが、あのときの八路軍は規律がよかった、とよく述べていた。われわれは1947年9月に引き揚げてきたが、その後長春争奪戦は苛烈なものになった。八路軍は国民党支配下の長春を囲み、食料・電源を止めるなどの封鎖作戦を実施した。このため、数十万の長春市民・在留邦人は飢えに苦しみ、餓死や人肉食が横行した。「このことは山崎豊子の「大地の子」にも出てくる。この間の事情は、中国評論家をされている遠藤誉(ほまれ)氏の「チャーズ」文春文庫上・下に詳しい。

 

引き揚げの体験

藤原ていの「流れる星は生きている」にあるような、朝鮮半島を徒歩で南下して引き揚げてきた方々、さらに開拓農民出身の残留日本人として苫労された方々と比べて、満鉄社員は引き揚げにおいても鉄道を優先的に使えるなど優遇されていたようだ。

残留孤児といえば、姉の長春学園時代の友人の一人が、残留孤児になられ、帰ってこられた話を聞いている。

私たちは私が4歳の秋に中国の葫蘆島(ころとう)経由佐世保に引き揚げてきたが、実はこの時までの記憶は全くない。初めての記憶は、東京へ来るまで一時世話になった母の三重県の実家の間取りである。この実家で、私が引き揚げの途中で覚えた「どこまで続くぬかるみぞ」という引き揚げの歌を歌って、皆の涙を誘ったという挿話はその後何度も聞かされた。歌のメロディーは覚えている。

わたしの現在の思想形成のうえで重要なファクターとなったもののひとつに、満州出身の引揚者だったという出自がある。他の多くの戦争被害にあわれた方に比べ、それほど過酷な幼少時を送ったとは言えないが、戦争に翻弄されたことは事実である。そして何よりも中国侵略の一員であったものの家族だったという自覚は、社会や政治を考える上で避けては通れなかった。その結果わたしは中国に対して贖罪意識を持っている。日本国民は世代を問わず植民地支配と侵略に対して謝罪すべきであり、安倍首相の、次世代に謝罪を続けさせられない、との談話は全く受け入れられない。そのことと現在の中国政府の覇権的行動への批判とは、全く別問題である。

中学時代の恩師

もうひとつ私の思想形成に大きな影響を与えたのは中学、高校での教育である。ここでは中学時代のある先生のことを書きたい。それは、中学生の時担任をしてくれた仲松弥秀先生である。先生は当時50歳。地理学を専攻し、戦前は朝鮮の師範学校で教授を務められたが、教え子を戦場に送った反省から戦後一から出直す覚悟で小学校教諭として再出発し、私が中学生の頃は中学で教えるようになっていた。その後沖縄に戻り、琉球大の教授として沖縄の地誌学、民俗学で大きな業績をあげられた。先生の授業は大変興味深く、たとえば地理的決定論、あるいは環境決定論の誤りを中学生にわかる方法で教えてくれた。私が大学で地理学を専攻したのには、多分に先生の影響がある。思えば中学時代に大学レベルの教育を受けたことになったのは、幸運としか言えない。その後先生は琉球大学生協の理事長をお引き受けになり、退職後は地域生協の理事長も務められた。このことと私が学生時代から大学生協の活動をし、生協に就職したのには直接の関係はなかったが、何かの縁を感じている。

さらに高校時代の安保闘争への参加は思想形成に決定的影響を与えた。安保条約の批准を許したが、われわれの闘いは続く、との当時のリーダーたちの演説に煮え切らないものを感じたのは事実だが、半世紀を経て振り返ってみると、反戦・民主主義への市民の志向性が物理的・明示的に示されたことが日本の海外派兵への制約となり、曲がりなりにも戦争をしない国日本が維持されてきたことを最近いまさらのように感じる。この流れが大きく変えられようとしている事に、危機感を感じている。