その子、どこの子だい?

平野卿子

 

わたしは戸山高校の卒業生ではありませんが、友人に誘われ、今回の文集に参加することになりました。

 

映画と書物からの衝撃

戦争の恐ろしさ、酷さ、愚かさについて伝え続けることの大切さは、いくら強調してもしすぎることはありません。

しばらく前、NHKのラジオ深夜便で、筑紫哲也さんがある大学で講演したとき、日本がアメリカと戦った事を知らなかった学生が大勢いたことに驚いたという話を聞きました。そういう若者が多いことは、ご存じの方も多いでしょう。けれども、そのときわたしが衝撃を受けたのは、これが1980年代の話だということです。戦争の記憶がそれほどの速さで風化していたとは…。

戦争の傷跡が色濃く残る時代に生まれ育ちながら、わたし自身はのほほんと生きてきました。そのいちばんの原因はむろん、わたしがぼんやりした少女だったことにあります。けれども、それだけではないような気もするのです。つまり、わたしたちの育った時代が高度成長まっさかりで、今日よりは明日、明日よりは明後日というように、未来に希望を抱くことができたこと、その結果うしろを振り向かない、そんな時代だったこともあったのではないかと。

わたしが戦争というものを初めて意識したのは、中学2年のときに読んだ『アンネの日記』がきっかけでした。よく知られているように、ユダヤ人の少女のこの日記は、世界的なベストセラーになり、映画にも舞台にもなりました。とはいえ、このときのわたしの関心は、戦争より、アンネという自分と同い年の一人の少女の生き方のほうにより強くむけられていたような気がします。

そして、高校2年のときに、『十三階段への道』と言うドキュメンタリ映画を見て、震えるほどのショックを受けました。これは、ナチスの犯罪を初めて詳細に記録し、全世界を震憾させた作品です。解放当時のアウシュビッツがスクリーンに映し出されたとき、わたしはこれが現実の光景だと知って戦慄しました。なぜこのような作品をひとりで見に行ったのか、その辺の記憶は暖昧です。ただ、映画館から出たときに冷たい雨が降っていたこと、それで気持ちがいっそう沈んだことは覚えています。

『二十四の瞳』や『ビルマの竪琴』など、日本にもすぐれた映画や書物があったにもかかわらず、戦争について考えるきっかけとなったのが外国の作品だというのが意外な気がしないでもありませんが、先に述べたような事情で、自国のことになるといまひとつぴんとこなかったのかもしれません。あるいは、無意識のうちに避けようとしていたのかも。

日本の戦争について初めて自分に引き付けて深く考えさせられたのは、なんといっても映画『人間の篠件』(五味川純平原作、小林正樹監督)です。見たのは初公開されてから10年ほど経ったときで、わたしは27歳でした。忘れられない作品です。その後、同じく小林正樹監督の『東京裁判』が公開され、冷戦を挟んでアメリカが変貌していく様子を知りました。一度見ただけではわからないことも多く、ずいぶん経って再公開されたとき、もう一度見に行きました。

 

父の復員

昭和20年生まれのわたしですから、むろん、戦争中の記憶はありません。父は何度か出征したと聞きましたが、戦争について子供たちに語ることはついにありませんでした。でも母が繰り返し語った次のエピソードは強く心に残っています。

20年の夏の夕暮れ、姉の手を引き、わたしをおぶって当時疎開していた秦野の村を歩いていたとき、向こうから復員兵がやってきた。薄暗い中ではじめは誰だかわからなかったが、近くまで来たときに父だということがわかり、母は夢中で「あなた! 帰ってきたのね!」と叫んだといいます。

「ところがね、お父さんたら、立ち止まったきり何も言わないの。お母さん、何度も言ったわ。『あなた、どうしたの?わたしよ』すると、ややあってお父さんはやっとこういったの。『その子、どこの子だい?』それで初めて手紙が着いてなかったことがわかったのよ。」

父が出征したあとで、わたしがおなかにいることに気づいた母は、戦地の父に宛ててそれこそ数え切れないほど手紙を書いたそうです。二人目の子が生まれたことを知らないままお父さんが死んでしまったらと思うと、気が気じゃなかった、と母は言いました。

その話を思うといつも、小学4年生のときに転校してきたKさんのことが浮かんできます。初めてKさんの家に遊びに行ったとき、おやつが出され、Kさんとわたしが食べようとすると、縁側で繕い物(この言葉ももう死語かもしれませんね)をしていたお母さんが、針の手を休めて「お父様にご挨拶は?」と言ったのです。Kさんは、はっとしたように居住まいをただし、仏壇に向かって「お父様、いただきます」と言って、丁寧にお辞儀をしました。わたしもあわてて一緒におじぎをしたのをいまでもよく覚えています。

そのときはじめて、Kさんのお父さんが軍人(陸軍少佐)だったこと、戦死されたことを知りました。

まもなくKさんはふたたび転校してしまったので、それきりになりましたが、母の話を思い出すたびに、Kさんのお父さんは、Kさんが生まれたことを知っていたのだろうかと思ったものでした。

このように、わたしの戦争に関する思い出はほんのわずかなものです。それでもわたしは、「戦争は嫌だ、絶対に繰り返してはならない」という気持ちだけは強く抱き続けてきました。なぜか。それは、わたしたちの生きてきた時代には戦争を経験した人がまだまわりに大勢いて、その人たちがさまざまな手段で戦争の悲惨さ、恐ろしさを伝えてくれたからです。

 

戦争と言論・表現の統制

とはいえ、これらはすべて戦後の話です。戦争中は厳しい言論統制によって、「本当のことを伝える」ことはできなかったのですから。国を挙げて戦う、つまり「勝つ」ことが至上命令の社会では、いとも簡単に言論や表現の自由の制限、いや、剥奪が起こります。これは世界中どこでも同じです。

日本の同盟国だったドイツでも、ピトラーが政権を取ったあと、表現に対する弾圧が始まりました。世界の映画界をリードしていたウーファー社は、ヒトラーが政権を取ってからは、ナチスのプロパガンダ映画しか作れなくなりました。その結果、ビリー・ワイルダーはじめ、大勢のすぐれた映画人がアメリカへ亡命し、のちのハリウッドの繁栄を導いたのです。

けれども、日本の映画監督には亡命する先などありません。その意味で忘れられない作品は、昭和19年に作られた木下恵介監督の『陸軍』です。この映画は国策映画として陸軍省の依頼で制作されました。しかし、ラストシーンで木下監督は、出征する息子の姿を追ってただひたすら走り続ける母親(田中絹代)の姿を執拗に追うことで、どんな言葉よりも雄弁に戦争に対する自分の思いを表現しています。(結局この場面が原因で、木下恵介は松竹に辞表を出し、映画が撮れなくなります)。必死で息子を追い続ける母親の姿に、わたしは涙が抑えられませんでした。「母親の愛」という筋書きで検閲を通過させ、したたかに無言の抵抗をした木下監督は、戦後も『二十四の瞳』と言う素晴らしい作品で戦争の悲劇を訴えました。

すでに「古稀」を迎えたわたしたちの世代ですら、戦争を知りません。わたしたちは前の世代の人たちを通じて、かろうじて戦争の恐ろしさを知ることができたのです。でも、これからは? それを思うと、焦りにも似た気持ちを覚えます。