ある地方都市の戦後

成澤 秀

 

私は終戦の前年に長野県の東部A市に生まれ、昭和28年(1953年)に上京しました。したがって私のA市の記憶はそのまま戦後の記憶になります。終戦については無論記憶にありませんが、父が語ってくれたことはよく覚えています。父が学生の頃は昭和初期に近い時代でしたのでプロレタリア文学が活発だったと思われます。父も学生として、それらの本を読んでいたと思われます。それを見つけた祖父が怒って、父の書斎の本を庭に投げ捨てるという事件があり、それ以来、父は祖父に反発していました。終戦の報を聞いて茫然としている祖父を見て、反省させるよい機会と思った父が祖父に問いかけました。

「どうです。親父さんが信じていたものは無くなった。この事態をどう考えますか?」

すると祖父が父の方を向いて即座に言い返しました。

「こーなったと思うだけじゃわい。

父はこれを聞いて妙に納得したということでした。

少し解説を加えます。

祖父は、戦前、戦中、戦後にわたり、A市の市長を務めました。従って戦争中は軍の方針に従って市政を行ってきました。祖父も父もいなくなってから知ったことでしたが、祖父は千曲川の河原を整地して飛行場として使用するように陸軍に働きかけていたようです。飛行場は完成しましたが、日中戦争拡大に伴いその飛行場は陸軍に献納され、戦時下にはその飛行場から特攻機が飛び立ったこともあったようです。敗戦によりA市飛行場は米軍に接収されて閉鎖となり、いまだに信州には飛行場がありません。そういう祖父を見てきただけに、父は敗戦によりすべてを失った祖父が自暴自棄に陥るのではないかと思ったわけです。しかし、案に相違して祖父はすっかり開き直って戦後のA市市政を考えていたわけです。

私の記憶しているA市は決して豊かではありませんでしたが、周囲の人々は明るく楽しげで、商業も活発な街で、食用品等は身近で調達しても、酒落たものを買うとなると軽井沢あたりからもA市に買い物に来るという様子でした。戦後の一時期東京のような入口過密な都市では食料不足が深刻でしたが、地方都市はそれ程でもなかったと思われます。無論、食料に恵まれていたという訳ではなく、小学校から帰ると、「お腹すいた。何か食べるもの無い?」と一言って、台所をのぞき、「蜂の子でも取って食べなさい。」と言われて蜂を追いかけて蜂の巣を探し回った記憶もあります。

祖父と同じように、多くの日本人が敗戦を機に開き直って歩き始めたことが奇跡の復興へとつながっていったのではないかと思っています。したがって阪神淡路大震災で神戸が壊滅的な損害を受けたときもすぐに復興に向けた取り組みが始まり、全国全世界からの支援もあって見事に立ち上がりました。そして東日本大震災にも果敢に立ち向かった日本人でしたが、福島の原発事故だけが今も大きく立ちはだかっています。その原発事故を体験した日本が脱原発を打ち出すかと思いきや、安倍政権が原発保護、もしくは原発輸出まで主張したので、いささか驚いた次第です。忘却とは忘れ去ることなりと、前進することも時には必要ですが、矢張り、国家としては過去の歴史を正しく受け止め、歴史から多くを学び、反省すべきは反省して進んで欲しいものです。