ミズーリ号

中原式子(ハワイ在住)

爆撃が激しくなったので父は私たち家族を山口県(裏日本側)に疎開させました。そこでの記憶です。子供たちが食べ物と求めて家に来ました。東京に移ってからは大人も物乞いに来ました。両親は近所の多くの人がしていたように野菜を栽培しニワトリを育てていました。さつまいもを持っていって壷焼き芋にしてもらったのを覚えています。サービスの代わりにお金をもらうよりその人はさつまいもと交換したかったのです。食料がどれほど乏しかったかが分かります。傷疾軍人もよく見ました。白い衣服を着てアコーディオンを弾いて物乞いをしていました。

もう1つのなまなましい記憶は原爆被害者のひどいやけどの傷跡です。新宿の伊勢丹の近くで多数のひどい写真を展示して寄付を呼びかけていました。叔父は原爆被爆者です。叔父はなんと原爆が落とされた日の朝に、徴兵された何人かとともに入隊の手続きに行ったそうです(原爆投下は午前8時16分)。

終戦4か月前の1945年4月2日には日本の神風特攻隊が沖縄の沖で戦艦ミズーリを爆撃しました(5か月後の9月2日にはミズーリの甲板上で降伏文書の署名が行われました)。ハワイの真珠湾には戦艦ミズーリ記念館があり、この土曜日(2015年4月18日)にはミズーリの甲板上で特別ミサが行われます。今年は鹿児島の知覧特攻平和会館から神風特攻隊員の手記などが展示されるとハワイの地元新聞が報じています。知覧特攻平和会館からそれらを海外へ貸し出すのは初めてと言うことです。特攻隊員たちが母や妻、子供たちに宛てた手紙を読むことはとても悲しく悲惨です。

中近東やアフリカの戦争被害者のニュースを聞いたり見たりしますが、日本がいつまでも平和を愛する国であってほしいと思います。