暴走を止めるのは一人の勇気

外山悠々(外山武成)

 

戦争体験シリーズの編集

私の歳では覚えているはずのない記憶が脳裏のどこかに潜んでいる。それはあの「空襲警報発令〜!」の拡声音と慌てて窓際の黒いカーテンが閉じられた光景である。ちょうど和歌山に疎開していた昭和20年ころの無意識の記憶である。父は終戦間際に召集されたが戦地に赴く前に終戦になり無事帰還した。疎開前に住んでいた東京千駄ケ谷の家は疎開のあくる日に東京空襲で焼け落ちたと母から聞いた。その母も2年前に亡くなったが私たちの世代はその最も困難な戦後の始まりを両親の必死の努力で育てられた。

私は疎開先から移った京都で小学校に入学し、以来転校を繰り返しながら東京に出てきたのが昭和28年、父は夢多き大正ロマンの青年であったが、その夢は見事に戦争で打ち砕かれ、そのやるせなさを私たちに悟られないように酒でごまかしていた。

ちょうど40年ほど前になるが私が編集者という仕事の関係もあってある団体の反戦に向けての出版に携わった。もちろんボランテアであったがほとんど一人で編集をやり、延べ4000人ほどの戦争体験原稿の文章整理をし60巻のシリーズ「戦争を知らない世代へ」にまとめた。原稿集めは団体の各地の若者が採取したもので、その内容は素朴ではあったが戦争という現実が語りかける無意味さと地獄模様に彩られていた。その第1巻は沖縄編を選んだ。先の戦争で最も理不尽に犠牲をこうむった沖縄が反戦の砦になると思ったからである。何度か取材で沖縄を巡ったが、その悲惨さの残像の強烈さに涙を抑えることができない幾つかの場所と出会った。ひめゆりの塔、摩文仁の丘など数多くの集団自決をした現場である。今でもそこに立つと目頭に熱いものがこみ上げてくる。当時取材にあたった若者が一様に口にしたのは取材相手の語りたがらない態度であったという。皆一様に「もう思い出すのも嫌だ」と口を固く閉ざし「二度とこの話はしたくない」とけんもほろろの態であったようだ。

このシリーズ60巻には書評や感想文が多く寄せられたが、なかでも心に残ったことは戦争体験を風化させない努力は認めるがそれが戦争への歯止めになるのかといった批評であった。それは決してこの取り組みへの揶揄として言われたものではない、これまでの歴史を見る限り戦争体験の記憶が歯止めになっていると確信できる事象を見つけることは残念ながら難しい。今日さまざまなメディアを通して世界各地の戦場があからさまに報じられ、その悲惨さは誰もが知らされているはずである。にもかかわらず一向に戦火がやむことはない。いつの時代も為政者になる人は普通の人々とは違った論理で生きているかのようにさえ思える。今世紀に入っても多くの独裁者たちが民主主義勢力によって倒された。だがはたしてそこに平和がもたらされたのか、否である。さらなる混乱に多くの人々は苦しみ新たな戦乱に行く当てもなく瓦礫の中をさまよっている。シリアから逃れてきた人々は行く当てをふさがれ途方に暮れている。これらの現実を見るとき平和世界を維持するこの難しさに茫然自失の思いさえする。

 

戦後70年と平和

いまこの国は私たちの歳とほぼ同じく戦後70年を迎えた。もう70年過ぎたのだから戦争責任を間われ続けるのは勘弁してほしい、戦後世代の私たちには関係がない。そしていま、安倍政権はそのような人々によって支えられている。それはもう戦争の時代は忘れよう、との意思なのかもしれない。そしてさらには次第にナショナリズムの高揚が図られ始めている。「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している」(『この国のかたち』)と語ったのは司馬遼太郎である。まさにこの手法がいままた繰り返されようとしている。為政者はその気になれば、あらゆるマスメディアを駆使して国民をマイ ンドコントロールしその意図した方向に引きずり込んでゆく。はたして私たちに止める手立てはあるのだろうか、そのことは最後に私なりの覚悟として触れておく。

平和という問題は極めて世界的な事柄である。この国が戦争に巻き込まれなければ良いとか国民が危険にならなければといった限定的なことで済まされることではない。むろんそれは集団的自衛権で解決されることでもない。私たちはかつての戦争への反省として憲法第九条を持っている。世界史的にこのような法はこれまでにまれである。その意味するところは世界のどの国にもあってほしい地上の平和へ向けての窮極の法でもある。あらゆる国がこの法を持ちうるならばこの地上に戦火は無くなるであろう。積極的平和主義を言うならば、この憲法の精神を世界に敷衛する行動こそこの国の役目でありそれに値するのではあるまいか。

私は編集者人生のおかげで様々な経験をすることができた。ベトナム戦争の最中、米軍の岩国基地で将校に率直に質問し危うく殴られそうになったこともある。また日本の防衛を考えるテーマで自衛隊を巡り田原総一郎と数か月にわたって取材もした。なかでも心に残る記憶はフィリピンのマルコス独裁政権を倒すきっかけとなったベニグノ・アキノ(ニノイ)との出会いであった。彼は1983年、帰国の途上空港でマルコス政権の兵士に銃弾で射殺された。その直前に運よく雑誌インタビュー企画していた。そのおり「国に戻れば命の保証はないがそれでも戻ることによって国民を救えるのであれば」と彼は力むことなくその胸の中を静かに語ってくれた。その強靭な意志に圧倒されながらンタビューを終えたことを覚えている。そしてフィリピンは幾多の困難を克服しまがりなりにも今日の民主主義国家を作った。彼の死がなければフィリピンの今はなかったであろう。

いざというときに一人の人間として勇気を持って立ち向かえるか、そして行動できるか。そのことが先にも述べたが私の覚悟である。この国の暴走が止められるとすればそうした勇気ある一人一人に私たちがなってゆくほかにはない。あの天安門事件の戦車の前に敢然と立ちはだかった若者、その勇気をできれば老体の私も持ちたいと思う。そして次の世代の若者にもその気構えを期待したい。