往時を偲び現代日本を憂う

竹村紘一

始めに

私は昭和19年2月に新宿は麹町にあった病院で生まれた。

その後、父母の故郷である土佐の佐川に疎開して、その後に父の転勤等もあり、京都左京区松ケ崎の相愛幼稚園に入園、松ケ崎小学校に進み、次いで熊本の白川小学校へ転校、小学校3年の3学期に東京世田谷の弦巻小学校へ転校し、以降は杉並区、大田区と移転した。東京在住が長くなったが、現在は川崎市宮前区に住んでいる。所属する歴史研究会の縁もあり関東高知県人会に入会している。戦争体験や戦後の苦労話をするような特段の材料は持ち合わせておりませんので、最初に原稿依頼が来た時には、遠慮しておりましたが、折角の機会でもあることから、敢えて投稿させて頂くことにいたしました。

以下、思いつくままに書かせて頂きました。ご高覧頂ければ幸いであります。

 

大分空襲

私の父は職業軍人ではなく、学生から軍に応召されたもので海軍に配属されたので海軍短期現役と称された。主計少尉に任官し敗戦で退役する時にはポツダム少佐となった。同期には戦死した人も少なくなかったとのことで自分は幸運であったと述懐していたことが思い出される。重巡羽黒に乗艦していたが、病を得て手術の為に本国へ送還され以降は内地勤務であった。上海に上陸した話や海南島へ行ったことや大分や館山にいたことは聞いていたが、余り多くを語る人ではなかった。大分にいた頃であったが空襲に見舞われ、母が私を担いで防空壕に飛び込んだ話はよく聞かされたものである。大分市は、豊後水道が本土空襲の経路に当たったこと、海軍航空隊及び第12海軍航空廠が所在したことなどから、数回に亘り、空襲を受けたが、一番大きかったのは昭和20年7月17日の零時10分から1時40分頃にかけて行われた空襲であった。空軍機による照明弾の投下が16日夜半から行われていたことから、空襲の日付は16日とされることも多い。既に数度に亘る空襲で破壊されていた市の中心市街地は、この空襲によってほぼ壊滅し、大分駅から海が見えたと伝えられる。祖母や母からはあんたは九死に一生を得たのですよと良く言われたものである。

 

悲劇のニューギニア戦線

私の母の従兄弟が戦死したのはニューギニア戦線だと幼い頃、祖母や母から何回も聞かされたことを覚えている。母方の本家の期待の跡取りであっただけにその父である祖母の兄は非常に落胆していたと何度も聞かされたものである。幼心にもニューギニアの地名は心に深く刻み込まれ後に太平洋戦争を研究する際には必ず留意したものであった。

太平洋戦争開始後間もない昭和17年17月、大本営は「ニューギニアおよびソロモン群島の要地の攻略を企画する」と決定し、ニューギニアについてはコフエ、サラモア攻略後にはポートモレスビーを攻略する」とした。この決定により同年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領した。これがニューギニアの戦いの始まりであり、マッカーサー大将が率いる連合軍との間で昭和20年8月15日の終戦まで戦いが続けられた。連合軍の優勢な戦力の前に日本軍は次第に制海権・制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓や疫病等の過酷な自然環境とも戦わねばならなかった。ニューギニアに上陸した20万名の日本軍将兵のうち、生還者は僅か1万名に過ぎなかった。戦死というよりは疫病や餓死による者が多かったと伝えられている。ガダルカナル・サイパン・硫黄島・インパール等と並ぶ悲劇の戦場であったのである。直、この戦闘には、台湾高砂族からなる高砂義勇兵や朝鮮志願兵、チャンドラ・ボース支援のインド兵も戦闘に参加していた。

 

真崎甚三郎大将

荒木貞夫大将と並ぶ皇道派の中心人物の一人。皇道派青年将校が起こ した2・26事件においては、青年将校等の主張に沿って収束を図らんとしたが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。事件後に設けられた軍法会議においては無罪となった。極東国際軍事裁判で不起訴処分を受け早期に釈放された。同裁判の真崎担当係であったロビンソン検事は満洲事変、2・26事件などとの関わりを詳細に調査し、「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない」「2.26事件では真崎は被害者であり、無関係」という結論を下し、そのメモランダムには、「証拠の明白に示すところは真崎が2.26事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」とある。毅誉褒疑の多い人物ではあったが、その生涯は綿密に調査すべき点は多々あると思われる。

弦巻小学校に大将のお孫さんがいてクラスは異なるが同学年であったようで、友人等と家を見に行ったことを覚えている。

 

傷痩軍人

中学は電車で大塚の方まで通っていた。渋谷駅前や山手線の中にはアコーディオンを弾く白衣を着て旧海軍や陸軍の帽子をかぶった義足の傷疾軍人さん等がいて軍歌を奏でながら募金を求めていた。私も時には僅かの金額であるが、募金に応じたことがある。小学校の側にも駄菓子屋さんがあり、そこのご主人も傷疾軍人で目と片足が不自由であった。我々は学校の帰りにそこでアイスキャンディやコッペパンを食べて談笑するのが楽しみであったことを良く思い出す。さすがに戦後70年を経た今日においては傷疾軍人を見かけることは無くなった。恩給が確立したことと、傷疾軍人も高齢化により多くは鬼籍に入り街頭に立つことは無くなったとのことである。一時はエセ傷疾軍人が有名神社や八幡様の境内等に出没し募金活動をしていたが、それも過去のことになった。時代の流れは滔々として歩みを止めないのである。

 

屑鉄拾い

焼け跡から釘とかトタンとかその他の鉄くずを拾い集めて屑鉄屋に売って小遣い稼ぎをして遊んだことがある。友達等と横一列に並んで手で拾ったりU字型の磁石を使ったりして拾い集めたのである。川に投げ入れて川の中の空き缶や釘を拾い上げたこともあった。家の家計を助けるとかの発想はなく、友達との遊びのひとつであったように思う。

 

ポンポン菓子

ポン菓子、ドン菓子とは、米などの穀物に圧力をかけた後に一気に開放することによって膨らませた駄菓子の一種である。巡回業者が子供の集まる広場などにポン菓子製造用の器具を持ってきて、目の前で作ってみせるということがよく行なわれていた。子供の頃はこれが楽しみで、業者が来たとなると、すぐに親から米を貰って駆けつけたものであり懐かしい思い出になっている。いまから思うと、米を持って駆け付けられるというのは恵まれた環境であったと思うのである。現在では、路上でポン菓子の製造を見ることは珍しいものになった。ポン菓子自体はスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで現在でも袋入りで販売されているが買うことはない。時代のなせる業であろう。

 

終わりに

物資難や食料難と言われた時代ではあったが、戦後の暮らしそれほどには苦しくなく恵まれていたように思う。友人の周りにも満州等からの引揚者はいたが戦死者は少なく困窮者も殆どいなかった。当時としては恵まれた環境にいたと思われるのである。従って最初の投稿は遠慮させて頂いていたのである。

翻って、現代の日本を見れば表向きは平和ではあるが、個人の自由の確立や、価値観の多様化と言う一見響きの良い考え方が蔓延したためか、国としての確固とした教育方針に欠け、国家・国民としてのアイデンティティが失われ、政治的昏迷・経済的破綻が亢進する中、世俗的な社会的地位への拘泥と経済的安寧への希求のみが拠り所になる時代となり、精神の荒廃は誠に凄まじく中から腐敗しつつあると言わざるを得ないと思う。勝ち組と負け組が強調され貧富の差が拡大傾向にある中、底の浅いマスコミやスマホ的文化がさらに世を悪くしているように思えるのである。若者には将来への希望とか己の人生をかける夢や志が見つからず、刹那的享楽的な風潮が世を覆っているのを見ると国家の将来に対して悲観的にならざるを得ないのである。今こそ真の国士出でよの時代であると思う。その意味で歴史を語り継ぐことは意味があることであると思う。