焼け跡と憲法に育てられた人生

原伸夫

 

焼け跡生活

私が生まれたのは1944年2月、東京都新宿区西大久保。銀行員だった父と、神奈川県寒川の農家から嫁いだ母との長男だった。父が兵役検査に不合格で出征せず、三鷹の中島飛行機に勤労動員で通っていたおかげで、私は今ここに居る。父は中島飛行機が空襲を受けた時、機銃掃射に遭ったが、危うく命拾いをした。新宿周辺の空襲で、借家も周辺も焦土と化したが、私は母と、寒川の実家に疎開していて助かったという。勤勉な父が毎日書いていた日記帳など、倹しかった全財産は、灰になってしまった。寒川の家にも直接、機銃掃射の空爆があったと聞いた。結局、死と隣り合わせの誕生だったのだ。日本全土がこんなふうだった。

そうして、私の微かな記憶は戦後の大久保、焼け跡で唯一焼け残った油屋の倉庫での暮しから始まる。窓も殆どなかったから、雨露凌ぐだけだったのだと思う。3歳の時、新宿の叔母の所が抽選で当てたバラックを譲り受けて、一間と土間だけの、今で言えば超安普請の仮設住宅に入ることができた。壁は薄い板、屋根は紙にコールタール塗ったルーフィングで、風通しは滅法よく、台風の時には屋根が飛んでしまって、去った後に月を眺めて寝た事を思い出す。

バラックでの生活は10歳まで、寒川で生まれた妹の後に、双子の弟妹が生まれて盥の産湯に浸かっていたのを、3歳半の記憶で鮮明に覚えている。双子が来るとは父母も知らなかったそうで、生活苦に喘いでいた両親は、生まれたばかりの下の妹を、南方戦線帰りで子のいなかった伯父の所に養女に出した。ずっと3人兄妹弟で暮らしていたが、実は四人だった。池上にいた下の妹は従妹のような存在で、大人になるまで、かなり疎遠だったように思う。

父は週末は、近所の痩せた空き地を借り畑にして、芋などなにがしかの作物を作 っていた。私の小学校時代は、母は外に働きに出ていたので、兄妹弟で遊ぶことも多かった。もっとも、まばらに家の建った近所の子供たちも多かれ少なかれ同じ境涯で、子供同士で遊ぶのには事欠かなかった。空き地もあちこちにあり、防空壕まで残っていて(人が住んでいた)、ガキ大将を先頭に走り回っていた。とにかく貧しく、着るものも食べるものも住まいも、なんとか生きてゆくのがやっとという子供時代だったが、それなりに「生きる力」は身に付けていった。これが戦後の新宿、そして大久保だった。

10歳の時に初めて父が公庫から借りて家を建て両親は大喜びだったが、このとき私は小児性腎臓炎で4ケ月学校を休み、治ったのが丁度10歳の誕生日だった。だからこの2月26日という日の不思議を、特別な思いで見ている。些かこじつけにも見えるが、2・26事件があったのは1936年、生まれる8年前で閏年、2月が29日まである年だったことなども、偶然だがなにか自分の運命のようなものを感じてしまう。

 

侵略戦争と戦争責任

私が戦争を嫌いなのは、なによりこの、全てが廃墟と化した焼け跡の灰の臭いが原体験としてこの身体に泌み込んでいるからだ。空襲を仕掛けて都会という都会を焼き尽くし、非戦闘民を無差別に殺傷し、果ては度までも原爆を投下して大量殺人した米軍の非道を絶対に許せなかったのだが、元を糺せば天皇制大日本帝国の陸海軍が仕掛けた侵略戦争のことを、小学校から大学まで、あらゆる機会に学んだことが大きかった。戦後の民主・平和教育は、一通りのものではなかったのだと思う。教師も生徒も、そして父母も、みんな必死で平和日本を目指していたのだと思う。一部の戦犯逃れや隠れ軍国主義者を除いて…。

侵略戦争に赤紙召集された母の兄弟は2人とも戦死した。中国が大好きだった伯父は1937年の上海事変の戦地・撫順で、もう1人の叔父は、1945年6月の沖縄戦線・宮古島で戦死した。2人とも紙きれ一枚で、骨は帰って来なかった。母はこの話をするたびに無念極まりない表情になり、私もこの大事な伯父兄弟を、一度も会うことなく失った。働き手で親孝行だった息子2人を、「御国のため」軍部の徴兵で失った祖父母も、どんな思いの生涯だったろうか。それもあって、無謀な侵略戦争を最後まで無責任に遂行した軍部と最高責任者・天皇を、決して赦せないのだ。

日本国憲法

戦後の日本社会をつくり上げて来たのは、日本国憲法だった。憲法は、私という人間の「骨格」になっている。戦後の新憲法と共に育ち、この人生を生きてきた。憲法の精神はずっと学校で教わった。小学校から大学まで、それぞれ先生と友人に恵まれ、平和と民主主義を学び吸収した。非武装・戦争放棄、国民主権、男女同権、思想信条・言論の白由などを、高校の新聞部や大学の教育研究会というサークル活動も通して友人と語り合い、行動していった。それが精神の奥底まで惨み込み、何人も剥ぎ取ることが出来ない、私という人間の一体物となって、今日に至っている。したがって、東京裁判は戦勝国の勝者の論理だなどと嘯き、軍部など戦争遂行権力の戦争責任を一切認めない軍国主義者・日本会議などが大量復活して、靖国参拝し、平和憲法まで変えて「戦争の出来る国」にしようと、大っぴらに画策している現状は、生理的にも耐え難い。

大学卒業後、総合商社で12年の海外勤務を含め多方面の仕事をして、「日本の商社が世界中で取引出来るのは平和憲法のおかげだ」との結論に至った。この持論を社内でも展開し続けて、退職するまで譲ることがなかったが、仕事で大いに貢献したので、こうした世界観のために冷や飯を食うことは殆どなかった。おかげで海外での取引先の人達とも遠慮なく話ができ、言行一致で信用を得ることも出来たのだと思う。1994年統一間もないドイツ、ベルリンフィルのコンサート会場で偶々、尊敬するヴァイツゼッカー大統領の隣席になり、握手を交わせたことも、こんな人生観・歴史観のおかげだと、巡り合わせの不思議を噛みしめたことだった(「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」『荒れ野の四十年』岩波ブックレット…これがドイツでの先輩からの引継書だった)。

企業というのは飽くまで仕事本位であり、一方、個々の人格はその人の世界観によって裏付けられており、仕事をする能力と世界観の二つの要素がバランスよく育っていることが、現代の人間としての必須要件だということを、会社生活でも深く学んだし、働く若い人たちにもぜひ肝に銘じてもらいたいと思う。

そして日本には今も、平和憲法とは両立しえない日米安保条約というものがあり、日本は事実上のアメリカの従属国となっている。戦後70年になるというのに、沖縄をはじめ全上に米軍基地が幅を利かせ、誇りも無く彼らに追従する政治家が、国を牛耳っている。近年注目されている若い論客・白井聡の『永続敗戦論』という本があるが、この、米軍の占領状態が今日も続き、米国の傀儡のような自民党政権が国家権力を握り続けている状況は、まだ敗戦状態が続いているのと同じだと、現代史の深層を的確に論じている。米軍基地があるかぎり間接的であれ米軍の戦争に協力しているので、日本に真の平和はない、と厳しく認識すべきなのだと思う。平和憲法を本当に実現するためにも、安保条約を廃棄すべきなので、その方が、いつまでも「世界の憲兵」「戦争中毒」を脱却出来ないでいる米国のためにも貢献するだろうと確信する。

 

特攻隊を

海に散らした

指揮官と

同じ顔つきの
政治家がいる

 

世代の

架け橋となろう

戦争と平和の

この体験を

語り継いでゆく