「敗戦」の風景

澤井洋紀

 

二つの安保

今年(2015年)の夏から秋にかけて、安保法制(いわゆる戦争法案)で日本はアメリカの属国になってしまうと思い、国会前の集会やデモに高校同期の友人たちと何回も足を運んだ。今から55年前の5月から6月にかけても高校2年生だった私は毎日のように安保改定反対のデモに参加していた。60年安保と2015年安保、安倍首相と祖父岸信介、55年経って古稀を越えて、また安保に直面するとは思ってもみなかった。

1960年の高校2年生の時になぜあれほど安保改定に怒り苛立ち反安保の波に身を投じたのか。そこにはやはり、戦争と敗戦があったように思う。

 

戦死した叔父

家族に直接戦死者はいない。しかし、戦争というとまず頭に浮かぶのは母方の叔父齋藤大典の戦死である。昭和19年1月生まれの私は叔父大典を直接には知らない。しかし、母の話、祖父母の様子から、大典の戦死は幼少年期の私に強く刻み込まれていた。

大正4年、大典は画家の齋藤五百枝の長男として生まれた。齋藤五百枝は東京美術学校の西洋画科を卒業し挿絵画家として活躍した。大典は旧制新潟高校卒業後、東大美学に進学したが、作家を志し、武田麟太郎が主宰する『人民文庫』系に属した。『人民文庫』はファッシズムと時局便乗作家が跋扈する時代に抗しようとした潮流で田村泰次郎や高見順等の作家がよりどころとしていたが、検閲が強化され発禁が続く中で、昭和 13年に終刊を迎えた。文芸統制はさらに強まり同人誌も発行が困難になり、昭和17年に同人誌統合で『正統』が生まれたが、大典は若手作家としてその中心を担った。

市井の人の視線で人の営みを描いていた大典は、留年を繰り返し召集を逃れて作家として生きつづけようとしていた。しかし、昭和18年の学徒出陣で召集され満州に派遣された後、一九年に南方へ派遣される途中台湾沖バシー海峡で輸送船が米潜水艦に撃沈され海へ沈んでいった。大典が軍隊をどう思っていたかは分からないが、彼は下士官への任官試験を受けず1兵卒にとどまった。学徒兵への憎悪が渦巻いていた軍隊のなかで任宮しなかった学徒兵はいじめ・制裁の格好の対象だった。祖母が食べ物を持って習志野の兵舎に面会に行った時、大典は頬を赤く腫らしていたという話を祖母はよくしていた。

祖父は大典に一番期待していた。大典の死を祖父は最後まで認めようとはしなかった。私が大学にはいったとき、祖父は大変喜んだが、そこには大典のことが重ねられていたように感じた。母は私に「大典おじさんが生きていれば洋紀のいい相談相手になったのに」と何回も繰り返した。

戦争による死者は暴力的に全ての未来を奪われる。殺されていった人は無念だったろう。残された家族もまた無念さを抱き続けた。戦争で殺されるのは数としての人ではなく一人一人の人間である。

 

戦争責任

高校時代に「戦争と平和を高校生に聞く」とかのラジオインタビュウを受けた。その時に、親の世代はもっと戦争体験を語って伝えてほしいと話した。今も状況は変わっていないどころか、語り伝える年代の人が姿を消しつつある。

なぜ、戦争体験は語られなかったのだろうか。あの戦争が敗戦であったこと、そして、侵略と加害と暴力に満ち汚辱にまみれた戦争であったこと、そして戦争の責任がついに明確にされなかったこと、それらが根本的な原因だと思っている。昭和天皇は戦争責任を巧妙にすり抜けた(それは天皇だけでなく日本占領をやり遂げたいと願うマッカーサーとの合作ではあったが)。せめて退位だけでもしてくれていたら、侵略した国と人々への日本の倫理的な責任を果たせたのにと今も思う。高校生の時、私が一番怒りを覚えたのは、戦犯岸信介が政界に復帰し、首相になったことだった。敗戦からわずか15年しかたっていないのに、なぜそんなことを日本の国民は許したのか。戦争責任の不明確さは、戦争の被害、加害を直視しない日本の退廃を生み出していた。

 

敗戦と占領

敗戦は、幼少期の風景だった。山の手空襲で家の直ぐそばまで焼けて、焼け跡が子どもの遊び場だった。新宿も焼け跡だらけで、新宿駅の中央口から武蔵野館あたりは、極東組などやくざの支配する闇市で一杯だった。西口にわたる地下通路は真っ黒な顔に目だけギラギラした浮浪児であふれていた。

下落合の家は熊本城を守った谷干城の屋敷の一部だったが、谷家の広い母屋は占領軍将校の住まいとして接収され、巨大な米軍のキャデラックがわが家の前によく駐車した。父は往来の妨げになるからと注意しようと思ったが、殺されるかもしれないと諦め、愚痴だけこぼした。母は占領軍にコネをもつ友人に誘われ喜びいさんで都心の占領軍専用のショップ(PX)に私を連れていってくれた。ヌガーチョコがとてつもなくおいしかったが、豊かなアメリカ商品にあふれた店内は、なにか禁断の場所に入った感じで後ろめたかった。

今の代々木競技場の地域はワシントンハウスと呼ばれ、アメリカ軍の広大な家族住宅団地であった。一面に青い芝生が広がり瀟酒なきれいな住宅が立ち並ぶ日本人立ち入り禁止の風景は山手線からよく見えた。焼け跡だらけのくすんだ風景とは段違いでなにか遠い夢の世界を見ている気がした。

在日米軍による犯罪や事件は少年の耳にも届いた。昭和32年には薬英拾いにきた主婦を射殺するジラード事件があった。基地拡張に反対するデモ隊が基地内に入ったとして検挙・起訴された砂川事件(最近この判決を憲法解釈変更の根拠にしたのでまた有名になったが)も同じ年にあった。所沢基地の米兵が西武線に向けて発砲する事件もあった。

こうした占領下の風景や出来事が、違和感としてなにがしか意識の底に形成されてきたように思える。

敗戦はまた即占領だった。今年、辺野古新基地反対支援で沖縄に行った時、沖縄は私が幼少年期に見た風景のままだと思った。