インパール作戦に参加した叔父の話

    −−− 戦中戦後の我が家の話を含め

小泉秀夫

インバール作戦

これは私が小学校の頃に聞いた話である。母の弟は大正6年生まれで、叔父さんになる。

彼が我家に来た時、タ食後などに時々戦地の話などをしていた。そうした時に実際に聞いて憶えているままなので、時間の順や文脈は切れ切れであるが、特にはっきりと記憶していることに限って記してみようと思う。

彼は、ビルマの戦地に行っていた。インパール作戦という言葉は聞いた記憶はないが、話の内容からすればインパール作戦への従軍である。「アラカン山脈(その山脈名はよく聞いた)」を超えて行き、そこは日本兵の白骨で「白骨街道」(*)と呼ばれたという話を記憶している。そのような言葉からも、彼の体験で強く残っていて人に話そうと思ったことは戦地で体験した悲惨な話であったようだ。といっても彼は一般的な意味で「戦争はよくない」ということは口にはしても、特に意識的に反戦意識が高いということではなかったように思う。そうした一般的な元兵士が話したことである。彼は最後は上等兵だったと聞いている。

(*)「白骨街道」と いう呼び名は、多くの本に出てくるが、最近の『「戦争体験」を受け継ぐということ』(遠藤美幸著高文研2014年10月)にも出てくる(p.75)。その本は中国雲南省拉孟全滅戦の証言の本であるが、その拉孟陣地に朝鮮人慰安婦がいたという話も出てくる。

彼の身長は当時で言えば平均的だったと思うが、がっしりした体格をしていた。それ故か、弾薬を運ぶ担当をしていたということだ。聞いた話では戦闘中、弾薬を運んでいったら砲兵が砲弾でやられて皆死んでいたということである。それを聞いた私は、砲弾を撃つ場の方が危険でそこに弾薬を運ぶ担当だったので助かったんだなと思ったことを記憶している。ある時は、任務で数人で走っていた時に、敵から狙われて、後ろを走っていた(より経験のある兵士)人が「撃った」と叫んで自分の前に出て伏せたので、自分も慌てて伏せた。その時、一瞬片方の手を下げるのが遅れ手首に傷を負ってしまった。攻撃が終わってみると自分の前に伏せてくれた人は顔に火傷を負い真っ赤になってしまっていた。それを聞いて私は前に出て伏せたのを不思議に思ったものだ。そのまま伏せればよかったのではと。また顔に火傷を負い真っ赤になったら酷い火傷で大変なのではないかと感じたものだった。

彼はそこで負った傷の手当で野戦病院に行ったが「馬の小便みたいな(彼の表現)」薄い薬をつけてもらっただけだったと話していた。また野戦病院(同じ所であるかどうかは記憶にない)が砲弾を受けて行ってみたら、犠牲になった看護婦さんの肉片が病院の壁に貼りついたいたという話もあった。

また、病気も流行っていて、彼も「アメーバ赤痢」に罹った。その時戦友に「白分は意識がなくてうわ口で『水、水』と言うかもしれないが、その時は必ず沸かした水を飲まして欲しい」と頼んだということだった。そういう戦友の助けと本人の意思もあってか、ともあれその「アメーバ赤痢」の犠牲にはならずにすんだ。

 

白骨街道

ある時、敵の捕虜(現地の人)を捕まえて「日本軍についてどう思うか」という質問に、「日本軍は怖くない。ただ、戦死した日本兵のひとだま」が怖いと話していたという話も聞いた。

部隊の生き残りを集めて部隊を編成し、さらにその生き残りから編成していったという話も聞いた。それだけ犠牲を出した作戦だったということであろう。「アラカン山脈」の道は「白骨街道」と呼ばれたという話を書いたが、途中に小屋があるとそこは兵士の死体で一杯だったという話もあったように思う。

これからは敗戦となり捕虜の時の話である。捕虜になって嘗ての上官に会った時、彼が捕虜の仕事で何をしたいかと聞かれたので「料理番」をしたいと言って、その担当にしてもらったという話をしていた(これは私が成入してから思ったことであるが、捕虜の中でも以前の軍隊組織が存続していたということになるのだろう。シベリア抑留(*)の話でもよく聞く話である)。元々料理が好きだったのか、あるいはそこで覚えたからなのか、彼は料理が上手で、私の家に来ると、よく卵を産まなくなった鶏をつぶしてさばいてもらっていた。当時私は小学生で、戦後のもののない時代だったので家でも鶏を大抵5羽くらい飼っていた。そして鶏をつぶす時とか、その羽をむしって、鍋でゆでて捌くなど、一連の作業を見ていて覚えている。

余談であるが、その鶏の歯ごたえと香ばしさは、ブロイラーの肉とは全く違う。サザエさんの漫画(姉妹社第8巻)にも登場している。

(*)シベリア抑留については、小学生の時、 姉に連れられて「私はシベリアの捕虜だった」という映画を観たことを記憶している。映画ではあるが、日本に帰れると思っていたら汽車は反対方向に走っている、そこで雪の中に脱走した兵の姿、シベリアでの森林の伐採作業と作業中での事故死、食料を巡る争い、故郷の歌を歌ってソ連兵から懲罰を受け真冬の夜に裸で拘束された場面…そして帰還を迎え、あくまでソ連に反抗した1人と一番迎合した1人が残された場面など、今でもよく憶えている。

また父の弟(私の叔父になる)はガダルカナルで戦死している。ずっと仏壇に銃を持ったその叔父の写真と1通のはがきがあったが、私も結婚して家を離れたりしてその行方はわからなくなってしまった。戦後,叔母は再婚していないし従姉は私より苦労している。

 

疎開

これからは疎開先の話である。私は東京の蒲田で生まれたということであるが、昭和19年4月に父の出身である福島中通りに疎開した。姉は当時小学校5年で疎開先の小学校に通った。父は若い頃肋膜を患ってレントゲンで痕があるということで兵役には取られなかった。母親は竹やり訓練や油をとるために松の根っこ堀り等の作業があったが、そんなことで勝てるわけはないなと思っていたと話していた。庶民の感覚的な判断であろう。そうした訓練や資源の調達を国民にさせながら戦争を継続できる・すると判断・決定していく政府の判断力が間われてしかるべきだろう。それによってどれだけ助かる命が失われたことだろうか。多くの犠牲は戦争未期に集中している。

これも母の話である。列車に乗っていた時、ある駅で多くの兵士がどやどやと乗り込もうとしていた。その時、将校と思われる人が「貴様ら乗るな―」と叫んで乗らせなかったという。その話をしながら乗れなかった兵隊たちは門限に間に合わなくて後で酷い罰を受けるだろうにと話していた。日本軍の理不尽な体質が現れた一場面なのだろう。

*そんな母だが、「敗戦の水を飲むな」という話もしていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に つながる話にならないとも限らないが、不思議と私の心に残っている言葉である。人間としてのプライドを忘れるなということを伝えたかったのだろうと思っている。一方、サンフランシスコ講和条約の後(当時、国立に住んでいて隣に米軍の立川基地があった。)外国軍がまだいる内は、独立といっても本当の独立ではないというような話もしていた。

空襲警報がなると私は押入れからおんぶ紐を出してきたという話や、少し離れた地方都市が空襲を受けて疎開地の山の上から赤々と燃えている様子が見えたという話を姉からも聞いている。

疎開中、食糧難で近くの神社の銀杏取りが大切だったとの話。私を座らせていてもすぐひっくり返るのでゆっくり銀杏取りができなかったとか、他の人と競争で朝早く取りに行ったという話。私が栄養失調になったこと、医者からはあまりものを食べさせてはいけないと言われていたが疑間に思った母が町の医者にいったら、もう栄養失調は治っていると言われたという話。−−私自身、小学生になって高校くらいまで、栄養失調にならなければもう少し背が伸びたのではいう思いが残っていた−−。

母親が買い出しで両手に荷物を持って凍った坂道を降りている時に滑って転んで大変だった等という苦労話も聞かされた。また、いつも親切にしてくれる農家(黒羽さんという方だったと記憶している)があったという話(母は戦後何年もその農家へ何か品物を贈っていたように思う)。

父が東京から帰って来た時、私が暫くは父を警戒して近寄らなかったという話。配給だけでは足りず闇の食料を買うと、父からは「国賊だ、非国民だ」と言われ、暫く配給だけで食事を出していたら、それからは父もそういうことを言わなくなったなどという話も母からよく聞かされた。一般に女性の方がずっと現実的で柔軟であるということであろう。