戦後70年に考える 

―― かつてアジアで唯一植民地支配をした

木村宏一郎

 

戦後70年にこれと言った戦争体験が思い出せないが、大事な取り組みと思い以下述べたい。

僕が小学校1年生まで生まれ育った渋谷。生まれたのは戦争中だが、戦争の記憶が欠落している。ただ渋谷も空襲により一面焼け野原で、今と隔世の感がある。ポツンと東横百貨店の建物が黒く焼けて残っていたように思う。その渋谷駅周辺には、義足や義手の傷病兵が募金を求める姿もあった。進駐軍相手の靴磨きやパンパンと呼ばれた女性たちの姿も身近にあった。何より子どもの僕は紙芝居の綿菓子や、たまに貰うアメリカチョコ菓子、ときに叔父が文明堂のカステラ。あまり戦争に関係ないか。

 

戦争に向き合う

むしろ、日本のかつての戦争と向き合ったのはずっと後で、それも社会科教員になってからである。ある時同僚が1つの資料を教材にと、本多勝一の大石橋「万人坑」(『中国の旅』)の記述を見せた。民間企業が「満洲」で30年余に渡り、中国の労働者を強制労働させて、その犠牲者を「捨てるように」埋めた1万7千余と推定される「ガイコツ」の山をいう。「生きたまま」、「足を針金」で縛られて埋めたガイコツも。軍や戦時だけでない、日本の加害の主体が民間企業であるということに遅ればせであるが、気がついた。それから「毒ガス人体実験」や「中国人少年を生体解剖」した731細菌部隊。熊谷組が戦争中に強制連行してきた中国人労働者が「相模湖ダム」建設での「殉難」死、などを教材化した。

以上の問題意識を15年戦争が関わる全ての地域・住民を視野に、そしてベトナム戦争から経済「侵略」に至る今日までを纏めたのが『資料生徒と学ぶ日本のアジア侵略』である。このような仕事が歴史教育として過去のモノになる日本になるはずであったが

いや、「過去のモノ」などと軽々に侵略・加害した日本人が言うことではないと改めて思い知らされたのは、2007年夏「旧満州」の歴史跡など現地を旅してからである。あの有名な満鉄「あじあ号」も大連に保存されていたが、大石橋市には「虎石溝萬人坑紀念館」が整備されて「骸骨」と上坑の中の骨がむき出しで見られる。「市級文物保護単位」の石版も。「満洲」を語る時、欠落はできない施設だと改めて

ハルピン市には侵華日軍第731部隊博物館が当時の本部の建物を残して整備されている。入り口には日本語の案内版も。ボイラー室、凍傷実験室、伝染病をうつすノミを寄生させるためのネズミ飼育室などの跡が残っている。後世への「忘れぬ」ための啓発教育施設としてきちん見学できるよう整備されていた(その後2015年8月15日、「細菌実験室」「特設監獄」の遺構の公開、「残虐行為を視覚的」に理解する工夫などより新たに広げて開館したという。金館長は「百聞は一見にしかず。ぜひ多くの日本のみなさんに・・・・」と)。この部隊名の数字をつけた訓練機に笑顔で得意気に乗った日本の首相がいたのでは?

 

植民地支配の加害の歴史

このような自らの加害の歴史事実に向き合わず、その歴史的な責任を感じないというのは、日本人としてだけでなく、今日の世界では人権意識の欠落を疑われるというのが戦後70年の今の世界ではないだろうか。いや現地を訪ねてもう一つ学ばされたことがある。

それはやはりハルピン市にある「東北烈士紀念館」である。その展示の詳細に今ふれる余裕がないが、建物自体がかつてハルピン「警察庁」でその「罪悪」の展示がある。とくに「偽」満洲支配に抵抗する多くの抗日活動家を拷問にかけ、殺害した。その一人趨一憂(チャオイーマン)がいる。今その英雄としての生涯について述べることはできないが(『歴史を生きた女性たち』第3巻参照)、1936年8月2日処刑場に向かう彼女がまだ7歳の1人息子寧児(ニンアル)にあてた遺書には、「日本の支配に反対するたたかいに全身全霊を注い」だため「母親としての役割」を十分果たせなかったと詫び、「祖国のために犠牲になったことを忘れないでください」とある。息子が母の願い「偽満洲」の日本軍からの解放をみるのは9年後である。

またこの記念館の展示の結語部分に次のような文があった。「残忍な日本帝国主義の14年にわたる東北人民への植民地支配を終わらせた。歴史を振り返った時、共に戦う中での血で結ばれた中朝人民の深い友情を忘れない。また、東北人民と共に日夜を問わず日本と戦ったソ連赤軍も忘れない」。

私たちの満洲についての歴史認識は真に「植民地支配国」の加害のそれだろうか。朝鮮ゲリラやソ連軍の歴史的な役割など問わず「被害者」としての意識に止まっていないだろうか。

私は支配加害どころか、「良い」ことをしたと言われかねない「台湾」の植民地支配にさらに分け入った。その二重三重の加害の歴史事実と向き合うために。そのーつがシンガポールの英軍戦犯裁判で死刑になった安田宗治(本名頼恩勤)だった。彼は『きけわだつみの声』所収の遺書で有名な木村久夫とともにインド洋カーニコバル島島民虐殺事件で訴えられた。(詳しくは拙著『忘れられた戦争責任』)

かつての戦争に多くの台湾人朝鮮人を戦場に駆り出しその命を奪っているのに、戦後恩給対象から外し、かつ戦犯に訴えられ罪に問われ刑に服したかつての植民地の人達に日本は何もしてない。頼は遺書で「公務」のために犠牲にと逝った。私は台湾に彼の遺族を探した。そして拙著の中国語訳を出してその犠牲の詳細を知らせて戦後日本の無責任を詫びた。

まだ、彼や木村を含めた日本軍の加害を詫びてないインド洋の島民たちへ、彼らが読める拙著の英訳を持参し、その犠牲者の墓参りが残っている。