人さらい

狐崎晶雄

 

戦災孤児・傷痩軍人

筆者がもの心ついたころ(4歳ころ、1948年前後)、道にはときどき2〜4人のみすぼらしい服の子供の集団があてもなく、とぼとぼと歩いていました。ようやく歩けるようになった2、3歳くらいから大きい方は12歳くらいまででしょうか。「浮浪児」と呼んでいましたが、戦争で家も両親もなくした子供たちです。我が家にもときどきそういう浮浪児のグループが訪ねてきました。両親もいて、家があっただけ、筆者はそういう子供たちに比べれば幸いでした。両親は、かわいそうだと言って自分たちだけでも不十分な食べ物を分けて子供たちの持っていた汚れた袋に入れてあげていました。そういうときは我々の食べ物も少なくなってしまうのですが、そういうのが当然だと思っていたので、不満に思うようなことはありませんでした。いまでも、あの子供たちは今どうしているだろう、と思うことがあります。

 「傷実軍人(しょういぐんじん)」もご存知ないでしょうね。軍隊で手や足を失うなどの大けがをされた方たちです。駅の出口付近にはたいていこのような方が白い服を着て軍隊の(カーキ色の)袋を持って、通り過ぎる人たちから募金をしていました。偽者も沢山いたようですが、ずいぶん後まで、1960年代までも見かけました。

このような目に見える戦争の影響のほかに、父親が戦死して母子家庭になった家族が無数にありました。戦死者数の半分以上あったでしょう。父親が戦争で亡くなって、母親だけで乳飲み子を育てていましたが、そのご苦労は計り知れないと思います。小学校のときからずっと同級生の中に母子家庭の友人は沢山いました。普通に見ていただけでは分かりませんから、そういう友人は筆者が知っているよりずっと大勢いたと思います。 新聞配達で家計を助けている友人も何人もいました。

表面には出ない、同じように長期にわたる影響、後遺症はほかにもあります。そのひとつですが、都会にいた家族は空襲を逃れるために都市部から遠いところに引っ越しをしました。疎開(そかい)といいます。疎開した先が危なくなって何回も引っ越しをする家族もありました。父親は軍隊ですから、そういう引っ越しは母親だけでしなければなりません。筆者はちょうど1、2歳で、1つ上の兄と幼児ふたりを連れて何回も引っ越しを繰り返した母は、ついに結核に侵されてしまいました。もの心ついたあと病気の母しか知りません。7歳のときに母は亡くなりましたが、戦争がなければ元気な母と暮らしていたはずです。

食糧事情もよくはありませんでした。最悪と書きたいところですが、世界の難民キャンプなどをみるともっとひどいところもあるので、そうは書きませんが。お米はめったに食べられず、いつもお芋の配給があって、長い行列をしていました。お芋もなくなって、1週間たべものは片栗粉だけ、ということもありました。鍋いっぱいにお湯を沸かしてカタクリ粉を入れてかき回しながら全部が透明になるようにするのですが、かたまってくると鍋ごと回ってしまって、全体に火が通るようにするのは大変でした。また、空き地にじゃがいもを育て始めたこともありましたが、大きく育つまで待てなくて、小さな芋を掘り起こして食べたことも記憶に残っています。

自分の経験ではありませんが、新聞にこんな悲惨な話も載っていました。食べ物がなくて幼い弟の牛乳を盗み飲みしていた。その弟は栄養失調で亡くなり、その責め苦を背負い続けて生きている、という人の投書です。その時の状況と、この投書をした幼ないお兄ちゃんだったひとの後悔、苦悩を想像できますか? 戦争をすれば、こういうことが実際に起こります。

 

戦争=殺人とトラウマ

父を含めて軍隊にいた身近な人が何人もいますが、だれも戦争の話はほとんどしませんでした。1人も直接殺したりすることはなかったと聞いていますが、それでもいやな記憶を思い出したくないのだと思って、聞くこともしませんでした。父は職業軍人でしたが、8月15日には「終戦記念日ではない。敗戦記念日なのだよ。」と毎年言っていました。大人になるほどこの言葉の意味の深さが分かってきました。叔父の1人は自分の肩を貫通した弾が後ろにいた友人にあたって、その友人は戦死してしまったそうです。ほかの叔父は婚約者がいたのですが中国で戦死。婚約者はその後結婚しませんでしたが、親戚のみんなは戦死した叔父の未亡人として、親戚の1人としてお付き合いしていました。もう1人の叔父は海軍の特攻隊に配属されて来週出撃というときに8月15日の敗戦宣言になり助かりました。でも、30歳前なのに頭髪が全部抜けてまる坊主になり、65歳で亡くなるまで頭髪が回復することはありませんでした。特攻隊のみなさんの精神的ストレスの大きさが分かります。もう1人は退職後に戦争の時に一緒にいて戦死したりけがをしたひとの住所を調べてお墓参りに全国に行っていました。そのように戦争に行ったかたがたは、たとえ生きて帰ってくることができても、人を殺しあるいは人を傷付けてしまったことを一生忘れることはできません。一生を目立たないように生きていたのです。これは戦争に負けたからではありません。たとえ勝っていても、たとえ自分自身が殺していなくても、殺人の一端を担ったという記憶はトラウマとなって残ります。

 

「いっちゃだめ」

最後に。あまりのことだったので、無意識のうちに自分で忘れようとしていたのだと思います。思い出したくない事件です。友人たちの文を読んでいるうちに思い出したので追加することにしました。それは「人さらい」です。この言葉も死語になりました。平和な世がいままで続いていたのだと改めて思います。子供をさらっていって、誰かに売りつけて金を稼ぐことです(驚いたことに米国ではいまでも「人さらい(幼児誘拐)」が多発しています。カリフォルニアの牛乳のパックは行方不明になった子供たちの写真が印刷されていて、さらわれた子供たちを探す手段になっています)。この人さらいが日本にも終戦直後にはあったのです。

上記のように筆者の母は結核にかかってしまい、しばらく入院していたことがあります。そのときにさびしくなって1つ上の兄と2人で表の通りに出て泣いていたら、通りかかったおじさんが病院に連れて行って母に会わせてあげる、と言ったので、見知らぬおじさんの自転車に乗ってしまったのでした(荷台の大きなかご。二人でも入れた)。兄は片目が不自由だった(*)ので、売れないから残されたのだと思います。兄が「いつちゃだめ!」と大泣きしながら捕まえていてくれました。が、大人の力には対抗できませんでした。弟(筆者)が連れて行かれてしまった、大変だとわーわー泣いていました。そこに運よく自転車の父が帰ってきて、すぐに見知らぬおじさんの自転車を追いかけてくれました。「その子を返してくれ」「どうしてだ」「それは私の子だから」という会話を聞いたような気がします。軍人で腕には自信のあった父も腕力には訴えなかったのです。上記のいきさつも自分では覚えていません。あと10秒、父の帰りが遅かったらもう行方不明で、いまの筆者はなかっただろうと思います。あるいは、もし兄も一緒に連れて行かれてしまったら、父には何が起こったか分からず、追いかけてとりもどしてくれることもなかったかもしれません。本当に奇跡的に助かったのだと思います。これは小学5、6年ころになって父がこういうこともあったね、と話してくれたので記憶に残っているのだと思います。そのときに、どうしてなぐりかからなかったのかと父に聞きました。「あのひともかわいそうな人だった。戦争で狂わされてしまったのだから。」という答えでした。言葉のやり取りだけで返してくれたのは、そんなに悪い人ではなかったからでしょう。でも、こう書いているだけでも心底ぞっとします。戦争になるとこういうことも実際に起こるのです。戦争は前線の兵士以外の町の人々をも狂気にしてしまうのです。

(*)戦争中、水不足、燃料不足で産院の産湯も入れかえできずに汚れた湯から細菌が左目に入って失明しました。これも戦争による被害です。兄が片目で残されたから助かったのかもしれない、ということは今回この原稿を書いていて初めて気づきました。

 

国を守るのは叡智

戦争はいつでも自分の国を守るため、平和のためと言って開始されます。その教訓を忘れてはなりません。戦争の準備をすると、それを使いたくなるから危険なのだ、と戦争経験者も言っています。それだけではありません。過去に日本に侵略された国々は日本の軍備増強を見て危険を感じ、日本に対する軍備を増強するでしょう。抑止力という考え方は軍備増強の際限のない競争を招きます。確実に日本のリスクは高まるのです。「国を守る」という言葉から「軍備」に直結することは間違っています。国を守るのは軍備ではなく英知です。戦争もやむを得ないというような狂気の状況を事前に防ぐ叡智こそが本来の政治であり、国を守るのです。ベトナムでは強大な軍事力を持っていた米国が負けました。イラクやアフガニスタンなどでも軍事力で勝てないこと、そして戦争が新たな戦争を生むことを証明しています。あの巨額の軍事費を最初から平和目的の経済援助に使っていたら、生活レベルが上がって今も戦争が続くようなことにはならなかった、という可能性は大いにあるでしょう。

戦争しない日本を維持するために個々人が少しづつ時間を割き、すこしづつ費用も分担しなければいけない状況になってきたと思います。戦争を招いたのは、政治に無関心で善良な市民だったという分析もあります。1945年まで310万人の死者を含めて8干万人の全国民が身に染みた悲惨さを繰り返さないように、叡智を絞り続けたいものです。