身近かに見聞きした戦中・戦後

菅野尚子

 

私の戦中・戦後

私は、昭和18年12月に、現在の北区で第1子長女として出生。父母は、戦争中の生活のことをよく話していた。その当時は、またかという思いで聞いていたが、はや70歳を越していざ書くとなるとその記憶も怪しくなってきた。聞こうにも父母は、他界。

その中で記憶に残っているのは、昭和19年12月ひと誕生を過ぎたときに、母と2人母の実家のある福島県に疎開した。その時のエピソードとして母は、郡山の駅でモンぺを履いていないことを注意されたという。福島県の田舎町にも頻繁に機銃掃射されるようになり、叔母(当時小5年)が、私を背負って避難するのが役日だった。母の実家の壁には、機銃弾が撃ち込まれた跡が残っているが、一瞬のことで私は、助かったという。

我が家では、父は、召集されたがすぐに終戦となり、引き続き東京で勤めていた。当時食糧事情が悪く、栄養失調を心配し、父も疎開。一緒に生活したが、田舎での勤務に飽き足らず、ほどなく父だけ東京に戻った。昭和26年(小学2年)戦後初めて建った鉄筋コンクリートの4階建の官舎に入居できたのを機に母と私妹も上京した。

転入当時、校舎が不足していて、二部授業だった。午後の授業のときは、給食から始まった。その給食の脱脂粉乳、どうにも好きになれず、「いただきます」というと同時に一気に飲み干していた。

クラスには、お父さんが戦死した人、お父さんが戦死し叔父さんが継父という人もいた。自宅近くの恵比寿には、駐留軍のキャンプがあり、外国兵や兵と一緒にいる女の人をみかけた。級友が、「誰さんの家に下宿している女の人は、 『夜の女でオンリー』なんだって」と言っていたが、外国兵と一緒にいた女の人とは、当時結びつかなかった。

中学の校舎は、元のかまぼこ型の兵舎で、廊下を挟んで教室があり、クラス50人位で13クラスあった。当時復員した先生がおられ、戦争の悲惨さを語っておられたことは、頭にうっすらとあるが、その内容は、今は、もう思い出せない。最近、友人が「社会科の宿題で、憲法の前文を暗記させられたわよね」と言っていた。私は、残念ながら覚えていないが平和教育がなされていたと思う。

街や駅頭には、傷疾軍人がアコーデオンを弾き物乞いしているのを見かけた。今考えると戦争の犠牲者で気の毒な人達なのに子供心になぜか気味が悪くて、見まいとした。

私が、『写真のおじちゃん』と呼んでいた母の兄(大正6年生まれ)は、ガダルカナルで昭和18年2月に戦病死している。母の弟(大正14年生まれ)は、旧制中学4年終了で陸軍士官学校に進み、配属が決まったが、直後に終戦になったとのこと。入隊前に一時帰宅したときの記念写真が残っている。時勢もあったのだろうが、貧しかったので官費で進学できるところというので陸士を選らんだようだ。

 

九条の会

私は身近な見聞や映画、マスコミ等から戦争は漠然と大変なことと思っていたが、具体的なイメージは、持てていなかったように思う。

私が7年前から、手伝いしている地域の九条の会で、12年前『我が町国分国府台「わたしたちの戦争体験」』をまとめた。20代で幼子を抱え外地から引き揚げてきた我々の親の世代の女性や、子供として引き揚げの体験や終戦直後の生活を語る私達より少し年上の女性、多感な青春時代軍事教育を受けた80代の男性、少年兵として戦争に加わった80代の男性、戦地に向かう前にあった兄や父との思いを綴った男性、東京大空襲の体験を語る人、わが町(今でこそ、文化、文教都市と言っているが、陸軍の町だった)生まれ育ち、町の様子、戦時中の体験を語る80代の女性、戦死した親への思いを詩にした同年の女性等など身近にいる人たちの原稿をパソコンに打ち込んだり、聞き取りをしたり、町内にある国立病院の歴史(精神を病んだ兵上を治療する陸軍病院)をまとめたりすることを通して、戦争の悲惨さを実感した。またガダルカナルから生還してきた人の話を聞き「写真のおじちゃん」で戦死した事実以上の思いはなかった伯父のこともリアルになってきた。たまたまこれを書くに際し、84歳になる母の弟に電話したら、戦死した伯父と戦地に行く前に食事をしていたときに「こんなふうに食事がこれからもできるといいな」と一言っていたのが印象に残っているという。その叔父の妻は、戦後見た映画「初めか終わりか」(原了爆弾の製造から投下までを描いたドキメンタリー)のパンフレットを持ち続けていたという。以前彼女が、昭和史を描いた写真集の広告をみて、孫たちに戦争の悲惨さを伝えるのに買うと言っていたのも思い出した。

改めて聞かないと語らないが、あの時代を体験してきた入たちの多くは、戦争が二度と起きないことを願っていると思う。

どんな理由があろうと、戦争は、殺し合いである。勝っても負けても犠牲者が出る。69年間1人の戦死者も出さず平和を守れたのは、憲法があったからこそ、それをなし崩しにして、「戦争をできる国」にして

積極的平和主義などというのはとんでもない。どなたかが、今の若者にとっては、太平洋戦争も我々にとっての日露戦争や日清戦争のようなもので遠いものだと言っていた。そういう若者たちにいかに伝えるかは、難しい。微力ながらもそれぞれができることをし続けるしかないと思う。

最後にASさんからの聞き書きを載せます。

*  *  *

ASさんからの聞き書き

私は、市川で生まれ、85歳の現在まで市川以外で暮らしたことはありません。

昭和15年、卒業式の前から、父に言われるままに父が勤めていた市川駅近くにあった小沢眼鏡工場(現在、門のみが残り、駐車場になっている)で事務員として働いていました。昭和16年、太平洋戦争が始まると、今は、文化会館になっている所の近くに八幡工場ができました。そこは、中島飛行場の軍需工場で飛行機の部品を作っていました。戦争が激しくなると本工場でも飛行機の部品(ねじ)を作るようになりました。昼間は、事務を、残業では部品づくりをしました。八幡工場では、青年学校の生徒が勤労動員で大勢働いていました。

給料日には、上司と硬貨が詰まった重い袋を抱え、当時、本八幡駅の南口はなかったので、高架橋を渡り、工場に届けていました。

戦争が始まってすぐに、米国の偵察機が来ました。弟は、「飛行機には、☆マークがついていて、青い目の入が操縦していたのを見た」と言って家に駆込んで来ました。金町にあった省線の車庫を狙っていたらしいのですが、市川でも根本で防空演習中の妊婦さんが機銃掃射にあたり亡くなったと聞いています。

戦争当時、我が家は、両親と長女の私を頭に5人の子の7人家族で、国府台駅の近くに住んでいました。最初の頃は、縁側の一部を切り取り縁側の下を防空壕代わりにしていました。その後、庭に防空壕を掘りましたが、真間川の近くなので30センチも掘ると水がでてきていました。そこでりんご箱に土を詰めて囲いにして空襲警報がなると入っていました。今考えると何の役にも立たなかったと思います。

父が召集されたのは、終戦の年の春でした。42歳の小柄で肋膜を患ったこともある父までも招集されるのだから、「戦争に負けるね」と家族で話していました。父は、最初国府台の部隊におり、牛蒡剣を下げ、家族に会いに一度だけ来ました。その後、茨城県の石岡の部隊に配属になり、土浦の少年兵と一緒に作業をしたそうです。「若者が、重い荷物を運んでくれたので助かった」と話していました。

 

東京の空が真っ赤に

3月10日の東京大空襲のときは、東京方面の空が真っ赤に燃えているのを物干し台から見ました。翌日、出勤すると、市川橋を渡っ て避難してくる人の列がゾロゾロ続いていました。顔が真っ黒に焼けている人、死んだ子を背負っている母親など地獄絵を見ているようで、今も脳裏に焼きついています。国道14号線沿いにあった映画館(三松館)は、遺体安置所になり線香のにおいがただよっていました。

東京大空襲後も空襲がたびたびありました。八幡の工場は、狙われ、その周辺の田畑には、焼夷弾の不発弾が突き刺さっていました。市川工場で若い職工さんが不発弾を拾ってきて火をつけたために焼夷弾が爆発しました。破片が心臓にあたり即死した人、両足が吹っ飛んだ人、あごが飛ばされた人など、3人が亡くなりました。同世代の弟も同じ工場で働いていたので心配しながら、私は、夢中で傷の手当にあたっていたのですが、途中で気絶して、気がついたときにはソファーに寝かされていました。その日は、3月22日で私の19歳の誕生日だったので、強く印象に残っています。幸い弟は無事でした。

当時は「お国のために死ぬのは、怖くない」という教育がなされていたと思います。3歳下の弟も、終戦になり実際には、入隊しませんでしたが、戦車兵を志願していました。上司の息子さんは、海軍に志願し、出征後まもなく戦死されました。その報を聞いて、白絣の着物に袴姿で挨拶に来た姿を見ていただけに思わず泣いて、上司に叱られました。その上司が息子さんの写真の前で涙をこらえていた姿が目に焼きついています。当時、新聞に特攻隊の人達が出撃する前に残した辞世の歌が載っていました。同世代の人達の気持ちを想うと切なくて書き写していました。今も残してあります。

戦争が早く終わればという思いよりも、仕事をするので精一杯でした。父が厳しくて、会社の旅行にも参加させてもらえなく、休みには家の手伝いをさせられ、外に遊びにも出してもらえなかったのです。人と話す機会も少なかったので人に話す代わりに日記をつけたり、短歌を作っていました。

寅年生まれの私は、「虎は、千里行って千里帰るので縁起がよい」と言われていたの で、7歳の頃から知らない人にも頼まれて随分千人針を縫いました。丸印がついた晒に年の数だけ赤い糸で玉を結びつけるので大変でした。そのうち適当な数でよいと言われました。最初の頃はひとつ玉を作っては、糸を切っていましたが、そこにしらみがつくというので続けて玉を作るようになりました。満州事変の頃から縫っていましたが、逆に戦争が激しくなってからは、頼まれることも少なくなっていました。始めの頃は、戦争が遠い感じでしたが、だんだんに、会社の人や知り合いの人が出征して亡くなったという話も聞くようになりました。

 

軍人の町、市川

市川は、軍人の町で、商大のところに歩兵隊、赤レンガのところには偉い人がいる師団本部、中国分の辺りは、東練兵場、三角山には射撃場、今のスポーツセンターや消防署の辺りは、西練兵場でした。国府台病院は、軍の病院で一般の診療はなく、里見公園の駐輪場あたりには、窓に鉄格子の入った精神病棟がありました。国府台駅周辺には、カフェや料亭が数軒あり芸者さんもいました。国府台駅近くの今お茶屋さんがあるところは、面会に来た人達のお土産屋さんでした。当番仕官が見廻り、兵士が入っていないかとカフェを覗いている姿も見ました。新兵が、道路で仕官に会うたびに敬礼をするのを見て大変だなと思っていました。

 中には威張っている軍人もいて、工場に来ては、私に「お嬢さん」「お嬢さん」と声をかけ眼鏡をせびっているような人もいました。

 玉音放送は、会社の前にあった家の庭(今、川瀬医院のあるビル)で聞きました。それまでラジオから聞こえる大本営発表の日本軍の戦果を信じていたので玉音放送を聞き終わっても戦争に負けて終戦宣言という事が信じられず、全員呆然と立ちつくしていた様に思います。

その後、会社は解散その数日間の出来事は今考えても何も思い出せません。その11カ月後には、別の会社で働く様になりました。

参考『わが町国分国府台わたしたちの戦争体験』(こうのだい九条の会2011年9月)