「引揚難民」

大森邦彦

私に戦争の記憶は無い。たまたま満州からの引揚コースの中で一番死亡率の高い経路に巡り会って、九死に一生を得た記憶は鮮烈である。母親から聴かされた話が体験と渾然としている感じは否めないが。

38度線で分断された北鮮に戦後残留していた10万人の日本人の引揚問題に関して、日本政府は無策であった。米ソ共同委員会でも俎上に上らず、米軍の保護も及ばなかった。軍人・軍属は見つかり次第捕虜と成り、やがてシベリアに抑留されて行ったから、敵国に婦女子だけが放り出された状態に陥った訳である。

私は旧満州国新京特別市(現、長春)で生まれた。国務院の官吏をして居た父は中支に応召された。母と姉と私は他の総務庁の留守家族と共に北鮮の平壌の北、鴨緑江に近い方峴に疎開して居た。終戦を迎えた途端に朝鮮人が蹶起し、烏居が倒され、ソ連軍が侵攻して来た。婦女子890人の部隊はソ連兵の前には無力だった。母は晒木綿で胸を押さえて男装し、野良作業を手伝って雑穀を得た。人口も田畑も少ない寒冷地に大量の開入者が加わって、食料需給面で受容れに無理があったのだろう。2回の越冬で、子供を中心に栄養失調、伝染病、餓死、凍死が待っていた。

稗も粟も高梁も消化できない私は薄い母乳と時折入手する粥が頼りだった。トウモロコシとその芯を砕いて蒸した団子を当番の母が作って居ると、その傍で私は「団子出来たら食べるんだ」とはしゃいで歌ったそうだが、食べても消化できなかった。死んだ子供の土鰻頭の上のお握りを奪い合う年長の子供を羨ましく思った私は、朝鮮人のオマニの腕に抱かれて、小学唱歌を歌ってお握りをせしめる芸を覚えた。

ソ連兵には囚人兵も混じり、軍律もなく日本人に略奪、乱暴を働く者も多かった。姉は短機関銃(マンダリン)で殴られ顔に傷を負い、よっぽど怖かったのか、それから3年間笑わなかった。内地に引揚げて随分経って父が買ってきたラジオから音楽が流れると初めて微笑んだ。

日本に脱出することになった。平壌辺りの幾分かは無蓋車で、残りは徒歩。深さ15センチの川でも死者が出た。ソ連兵と朝鮮人の保安隊に見つからぬよう、小集団に分かれて南下。声を出す子供は置き去りや、もっとひどい仕打ちが待って居た。封鎖されていた38度線を踏破して、開封の米軍キャンプに辿り着き、救出された。

私は部隊で最年少の生存者になって居た。子供を失った母親たちの咎めるような眼差しと、「次はこの子だ」という囁きが怖かった。引揚船で博多に上陸した3歳の私は、当時の2歳児の平均身長・体重に遥かに及ばなかった。後年、母は栄養失調で腹だけ膨れ上がり骨と皮だけになったアフリカの子供をテレビで見付けると涙ぐんで「あの頃のお前はあんなんじゃったんよ」と咳いた。

小学校の入学式で最前列に整列して居た私は、壇上の校長先生から「坊やはお母さんの処に戻りなさい」と諭されて、「僕は1年生です」と答えた。平均身長に達したのは大学4年生の秋。

引揚の苦労を忘れまいと8月15日は終日、麦飯と沢庵だけだったが、平素、両親は「いざという時に日頃の栄養摂取が生き抜く力に成る」とエンゲル係数の高さを気にしなかった。そのお蔭で大病にも耐えてこの歳に到った。