大連生まれの私と周囲の人々

大場淑子

 

満鉄調査部の父

1944年2月早生まれ、2人兄妹(後に1才半年上の従兄が加わり3兄妹となる)の末娘としてのんびりおっとりと育った私には、戦争後の間もない頃の記憶を絞り出すのは難しく、順序良く生々しく書き述べるという事は到底出来ない。たまたま私たち夫婦の双方の父親は満州に作られた国立ハルピン学院(日本の国費でそれぞれの県から一名派遣)の同期生であり・満洲鉄道の北方調査部に所属していた同僚であった。大連で生まれた私は1948年に日本に引き揚げてきてからの成長期に、父の友人・満鉄時代の先輩方のご家族と親しくさせていただいていたので、その家族の悲喜こもごもの事柄を見聞する環境にあった。

大連生活から舞鶴港に着くまでの4年半の間は、頭の中で5場面ほどが記憶の映像として出てくるだけで、その時代のエピソードは両親の話としてうろ覚えの記憶にとどまっている。家の中の鴨居にブランコを作ってもらって遊んでいる情景、社宅の中にあった階段踊り場に転げ落ち頭のてっぺんにこぶを作った情景。大連の家の前の厚い氷の張った広い大通りに箱ぞりで遊んでいる私やベランダで遊んでいる私たちを見ている母の顔、と他愛もない日常生活の中での1コマずつの映像以外に、夜中寝ている枕元に軍靴をはいた軍人が歩き回っている足元だけの情景、帰国時の病院船高砂丸の船中の自分の居場所(たまたま私が病弱で熱が出ていたせいで、天井から柱のある箱形のベッドのようなコーナーが与えられていた)とたくさんの人々が雑魚寝をするような状態で集められていた畳の広い場所の情景だけが鮮明に残っている。

大連時代の我が家には父の職業柄、ロシアの軍人たちと食事をする機会があったようだ。あるとき3歳上の兄(外交的で大人を引き付けるかわいい幼児であった)を抱き上げかわいがってくれていたロシア人将校に、4歳の子が何を思ったのか彼の頬をぱちっと打ったそうだ。内気な私はその時部屋の隅に小さくなっていたらしい。頬を打たれたロシア人将校は腰にあった拳銃を手に取り身構えたそうだ。父母は真っ青になったが、その将校はアルコールが入っていたこともあり父のとりなしで事無きを得た。

その兄が父と電車に乗り市中に映画を見に行った時、父からはぐれてしまった。父は青くなって探しまわったが見つからず、いったん家にという事で帰ってきたそうだ。当時は日本の幼児が一人で歩いているものなら中国人に連れて行かれることがあり、父は家に着いたとき無事に笑顔で自分を迎えたわが息子を日にするまで生きた心地がしなかったと言っていたが、それに対して兄は電車に乗っていくような遠い所から迷子にならないで白分ひとりしっかり家にたどり着けたことを自慢している。

それでもその後、40歳〜50歳になった残留孤児(中国に残され、その多くが過酷な人生を歩んでこられた)の日本人家族や親戚探しのテレビなどの放送を見るにつけ、今でもあの時は自分も残留孤児という身の上になっていたかも知れなかった、本当にならなくて良かったと言い続けている。

助けてくれた紳士

私が生まれた頃、満洲で生活をしていた父の妹家族3人が、急に同居することになった。妹の配偶者が兵隊に行ったためか、父がこの3人を引き受けたのである。そろそろ日本人にはなかなか食料が回ってこない状況になり、母は2人のわが子以外の食料も準備せねばならず苦労をしたという。ある日、母が彼女の着物を他のものに交換しに町を歩いていると、中国人にワッと囲まれて怖い思いをしたことがあった。その時、恰幅の良い現地の紳士が間に入って彼等たちを排除し、母に気を付けて早く帰りなさいと助けてくれたと、私が高校生になったころ、その時の恐怖とそんな紳士に巡り合った幸運な気持ちを私に話してくれたことがあった。

父も生前、戦後の大連生活で得た中国・ロシア人との個々の付き合いの中で、彼らに助けられたことも多々あり、いい人は一杯いるのだがねという言葉を残していた。大連では終戦後、若い女性はみな中国人に襲われないように頭を丸坊主にして、女性と見られないようにしていたと父から聞いたことがあったので、この手記を書くに当たって、今でもお付き合い頂いている父の満鉄時代の上司のお嬢さん(私より10才程年上)にお話を聞いたところ、終戦後1か月は家から一歩も出ず、その後の外出時の2−3か月間は、やはり髪を切り、男性のような恰好で出かけたそうである。それでも大連は比較的治安が良かったので怖い期間は短かったという。帰国直前の大連でも、日本の内地に比べ物資がまだ豊かだったのだが、日本に持ち帰れる荷物は手荷物のみ、持ち帰る金額も制限され、ほとんど全部資産は現地に残さざるを得ない。そのため人々は少しでも多く持ち帰ろうと、何枚も縫い合わせた衣類を着、上着も重ね着をするといった状態で乗船したそうだ。夫の祖父などは少しでも多くの金を持ち帰ろうとして金歯とした。しかし、持ち物はリュックサック1つ、その中に研究者の彼にとって命と同じぐらい大事な顕微鏡を入れて来たという。気丈でしっかり者の母はいくつかの柳行李にそれぞれ均等に物資を詰めて、そのうちのどれかが日本に届けば当座をしのげるようにと船便で送 った。船便など当時はほとんど届かないのが普通だったとか。

 

高砂丸で引揚げ

1948年7月に引き揚げ船高砂丸で舞鶴港の埠頭に着き、引揚者たちがそれぞれに自分たちの故郷に散っていく中、私たち家族は、父の家族の誰からの出迎えも連絡もなくて一番最後に残ってしまい、父にとって最悪の状況になっていた。皆のいなくなった晩も舞鶴で過ごし、取り敢えず母の郷里の宮崎県都城にという事で九州に。戦後にも関わらず母の実家は食べ物も十分、住居も賛沢なほど広いという事もあり、父はそこに落ち着いてもよいと母に言ったそうだ。気丈な母はなんと情けないと父を奮起させ、半年ほどの都城の生活を捨て、父の実家である名古屋に帰ることになった。

名古屋に戻ると、戦時中連絡がつかない間に父の両親、兄はすでに亡くなっており、三千本もの梅の木があったという覚王山の実家も、他に持っていた家作も名古屋の大空襲で焼きつくされ、辛うじて父が若い時結核の療養のために過ごした家が残っていたのは私たち家族にとっては幸運であった。しかし、祖父たちの所有していた農地などは父の帰国が遅かった為に不在地主の状態で近所の人々が使用し、ほとんど二束三文で手放さざるを得なかったらしい。僅かに残った農地の地代はさつま芋であった。

名古屋で生活をし始めた戦後4年目の頃はまだ物不足であった。当時5歳だった私には1才半年上の従兄が我が家に引き取られ、年子の3人兄妹となった。父は私に「ちいさい兄さん」と呼ぶようにと強要した。しかし私には受け入れがたく、逆に拒否する気持ちになってずっと愛称で呼ぶことになった。母にとっては、わが子以外に7歳の子供を分け隔てなく育てることは容易ではなかったと思う。後々母は、2人の自分の子供がこの子のために後ろ指を指されることの無いように必死だったと言っていた。この兄は肋骨が呼吸困難から鳩胸に変形するほど重症の小児端息の病を抱えており、発作が起きると傍で見ていても苦しくなるほどで母も付きっ切りで看病していた。後々当時の生活費の半分が薬代に消えて大変だったという苦労話も聞いた。

 彼の喘息は中学生のころには姿を消していたように思う。母が大連から送った船便は、忘れていた頃に全部届いたので、それによって随分と生活が助けられたと言っていた。父の療養用の家も裏庭があり、鶏を飼っていたり少しの野菜を作っていたが、思い出に残るのは、宮崎高女を卒業し、満鉄で父の上司の秘書勤めをしていた母が、薪で沸かすお風呂の為に大きな斧を振りおろし、薪割りをしていたことである。「冬の寒い時など体を温める為には薪割りは最高だったわよ」との母の言葉が耳に残る。

中1で東京へ

中学校1年の5月、父の転勤で住んでいた名古屋の家を売り、東京の原宿に移り住むことになった。父母の仲人役を引き受けて下さった満鉄時代の上司(前述)のご家族が、当時三重県桑名に住んでおられた。その上司は戦犯としてシベリアで抑留生活を送られており、桑名で母と姉妹の母子だけの生活だった。名古屋時代、そこへ両親は私をよく連れて行ってくれたので、私も親しくさせて頂いていた。上京してすぐの頃だったと思う。当時ラジオで尋ね人や外地からの帰国者名を放送する番組があり、私もラジオから聞こえてくる名前に毎日耳を澄ませていたものだ。ある時「T・K」私の耳ははっきりとその名前を捉えた。すぐさま私は小躍りして、台所にいた母の所に桑名のおじ様が日本に帰って来られる、と報告した事を今でも思い出す。最近その下のお姉さまとお話したが、抑留生活は相当辛いものであったようだけれど、シベリア生活の事をご家族にはほとんどお話にならなかったようである。私が大学を卒業した年、母と2人で東北旅行をした時、仙台の大学で教えておられたおじ様を訪ねた。柔和なお顔でじつと私をご覧になり、私に話しかけられる言葉は、もの静かでゆっくりととても暖かであった。その時はおじ様は耳が遠く、片方の目が見えない状態だったので、私はおじ様の見えない方の目を見てはいけない気がして、見える目の方を見ながらお話ししようと気を集中するのに一生懸命だった記憶がある。退職されて桑名のお子さまの処に戻られた時は両目両耳とも見えない聞こえない状態になっておられ、抑留生活があまりにも過酷だったことが伺える。

父のハルピン学院の同期生の友人の1人も憲兵であったことから、この方もシベリアに10年以上の抑留生活を送っておられた。奥様は母子家庭として生活をしておられたが、洋裁、編み物の腕を生かし、逞しく生きておられた。私の両親は女手一つで、よくやっていると感心しながら話しているのを私は聞いている。その友入がシベリアから帰国されてからも、家族ぐるみで互いの家を行きする親しい間柄であった。このシベリアには57万人の日本人が送られ、5万5千人が当地でなくなられている。極寒の地イルクーツクにあるたくさんの二階建て以上のレンガ造りの建物などは、この抑留者の無償の労働力で建てられ、ロシアは、当時民主化思想を日本人に植え付け、その思想を受け入れた者から帰国させていた。また日本人同士の吊るし上げや自分以外の日本人の反省点を報告させるなど精神的な人間破壊をさせたという報道が、最近NHKのドキュメンタリー報道にあった。

夫の祖父の体験

夫の母方の祖父は戦前は満州国博物館部長、戦後は中華人民共和国の国立東北大学教授として迎えられ、夫の父親の家族は結婚前から大陸生活をしており、何人もの中国人を雇用していた。そんなことから終戦直後の混乱期には中国人の学生や雇用人にいろいろと助けられたそうである。ここで私が夫の祖父の戦時下体験を書きたいと思う。それは、戦争によって人類の歴史の貴重な資料がいとも簡単に藻屑と化してしまうという悲劇もあるという事である。詳しくは遠藤隆次著の「原人発掘」に書かれているが、以下に原文を部分的に引用する。

*  *  *  *

ソ連の宣戦布告

忘れもしない8月8日の夜11時、ラジオがけたたましい叫び声をあげた。「沖縄基地のB29、十数機からなる編隊は、ただ今新京に向かって来襲中。全員退避せよ。」(略)午前3時ラジオが再び突然叫んだ。「沖縄基地より米機が来襲したというのは誤り、昨日まで中立を言明していたソ連は9日午前零時、日満両国に対して宣戦を布告。目下満洲里、黒河、綏芩河と西、北、東三方面の国境を突破。航空、戦車両部隊を先頭に新京に向かって進撃中。全日本人は結束して奮起せよ」(略)

8月9日の朝は白々と明け、太陽はいつものように私たちに一日の開始を告げた。するとさあ大変。実にこの日から数日間の在新京日本人の有様は、蜂の巣を突っついたってクモの子を散らしたって、こうはなるまいと思われた。日頃の秩序・規律はまるきりどこかへ消し飛んで各人各様、われ勝ちに慌てふためいて避難し始めたのだ。何よりも肝心の関東軍司令部と満洲国首脳部がまっ先に民衆を放り出し、通化で決戦とかのお題目を並べ立てて逃亡したのだからお話にならない。

民間人の足は完全に宙に浮いてしまった。ほとんどの者が着のみ着のまま奉天、通化、安東、それから朝鮮へとまるで朝鮮海峡を歩いて渡る勢いで逃げ出した。現に私のいた南嶺徳昌路には、約80軒の日本人が住んでいたが、それが毎日クシの歯が抜けるように空き家になり、数日後には私の家を含めて4〜5軒が残留するに過ぎなかった。「思いぞ起こす過ぐる昭和6年9月19日の朝まだき、奉天北大営の戦闘におどろき、あわてふためいた中国人の大群衆が算を乱して逃げ出した。あの千代田通りの悲惨な有様……それが今はわが身の上なのだ」(略)

逃げて下さい

ぼんやり庭先を眺めているところへ、日ごろ目をかけていた李という中国人が、どこで手に入れたか一台のトラックを持って飛び込んできた。「先生、いつまで腰を抜かしているのですか。ぐずぐずしていると、命が亡くなります。さあ早く、奥さん娘さんともどもそれに大事にしておられるシヤレコウべなど、全部この車に積んでください。日頃の恩返しに私がお供します」私は感激で胸がいっぱいになった。(略)取り残され形で少々心細くなってきているさいである。それにトラックもあれば、標本類の運搬もできる。李の行為は神の救いと思えた。「よし逃げ出そう」と私は決心した。しかし折悪しく、日ごろ病気がちの妻は数日来の心労も加わって、その日も病床にあった。(略)

妻はじっと私の顔を見ていたが、やがて手を伸ばして私の手を握り、力なく首を振った。「この期に及んで逃げようとしても、私の今の健康状態では、10キロだって逃げ伸びることなど出来そうもありません。私はこの家で静かに運命を待つことにします。どうかあなたと娘だけで逃げてください。これがお別れになるでしょうが・・」あとは涙を流すばかりである。「こうなれば3人仲良く最後までこの家でがんばろうよ。死ぬときは一緒だ」こんなわけで李のトラックはとうとうそのまま帰ってしまった。しかしあとで分かったことであるが実際、人の世の幸不幸はあざなうナワのごとし。当時新京はもちろんハルピン、奉天などから逃げ出した日本人は、多数集団のものはだいたい無事だったが、少人数のものは、ものの10キロもいかないうちに中国人の無頼漢におそわれ、一物も残さず略奪されたばかりか命を奪われた者も多かった。もし私たち一家が李のトラックで逃げていたら、少なくとも男の私と病身の妻は、問題なくあの世行きさせられていただろう。そう思うとあの時妻の病気こそが私たち一家を守ったことになる。

筆者はソ連軍が新京に侵入して来るのを徳昌路で食い止めるための陣地として我が家を明け渡し、その直後に専売公社の社宅で終戦を告げる国の御声を聞くことになった。〉

 

満州国立中央博物館の破壊

「先生大変です。新京の町ではすでに昨夜から日本人に対する略奪が始まっています。それに博物館がやられたという事です。心配ですからお知らせに上がりました。」(4キロの道を息せき切って博物館に駆けつける)惨また惨、何たることだ。これは!中央ホールに威容を誇っていたマンモス象頭骨化石と二本の大きなキバは、木端微塵に打ち砕かれて、跡形もなくなっている。ホルマリン漬けの標本は手当り次第に放りだされ、ガラス瓶が割れてホルマリンの刺激臭で目もあけられない。(略)

文字通り足の踏み場がない。よくもこうまで念入りに荒らしたものだ。思わずよろよろして傍の柱にもたれかかった時、私の目から涙がこぼれ出した。私は初めて「敗戦」を泣いた。在満24有余年、遠く満鉄教育研究所付設教育参考館から準備処を経て、満州国立巾央博物館自然科学館へと、多くの人々の協力のもとに満身の力をふりしぼり、高い理想を掲げて築きあげて来た半生の所産は、一瞬にして、無知暴民たちの手により破壊されてしまった。(略)

北京原人は太平洋戦争突発とともに失われた。(略)戦争は終わったが、物騒さには変わりない。(略)しかし幸いなことに、私の家は暴民の訪問を受けることなく過ぎていった。9月上旬になるといったん新京から逃げ出した日本人もぞくぞく舞い戻り、そこへ北満方面から同胞の難民がどっと流れ込んできた(ソ連兵の進駐である。)

 

ソ連兵の略奪

その時一番最初にソ連軍が日本人に申し渡したことは「もし日本人がソ連兵の1人を殺害したことがわかったときは、その犯人の近所に住む日本人200名を銃殺に処す」という軍令(?)であった。(略)初めは知る由もなかったが、一両日たつとその真意がすぐ読めた。それは彼らの日本人に対する略奪を安全


かつ容易に遂行しようという深謀だったのだ。まるで作物に襲いかかったイナゴだ。9月末から約1か月間、ソ連兵は中国人無頼漢と手を組んで、徹底的に日本人の略奪にいそしんだ。(略)折から私の家で近所の人たちと会合を終えて散会した直後、ジージーとベルがけたたましく鳴る。誰か忘れ物でもしたかと玄関を開けるとギョッとした。(略)4人のソ連兵が、ものも言わずドカドカとなだれ込み、銃剣を付けて私の回りを取り囲んだ。(略)手あたり次第にめぼしいものをどんどん戸外に放り出す、とあらかじめ用意してきたトラックに山と積み上げてしまった。(略)かねてこんなこともあろうと、床下にかくまっていた妻と娘は安全であり、ジャライノール頭骨とも模式標本も無事であった。彼らは私の一番大事なものには手を出せなかった。

〈筆者はその後7回の略奪を受ける。そんな時、夫の父が当時満州国重工業総裁だった高崎達之助氏《故人》にロシア語と中国語が堪能なのをかわれて氏の秘書をしていた関係で満州重工業の社宅に移る事ができ、2年後帰国となる。〉

悲劇の時代の中で、時間・状況の紙一重のところで、より一層の悲劇を免れて現在に至っている私たち家族は大変幸運に思う。多くの恐怖に直面しながら生き抜いてきた私たちの親や祖父の世代、そして私たち世代でも、悲劇的な境遇に陥った多くの人々の体験を、私は後世にしっかりと伝える義務があると思う。

参考:遠藤隆次『原人発掘一古生物学者の満州25年」1965年、春秋社

*模式標本:新種の化石を発見し、その特徴を克明に記述した論文が公認された学術雑誌に掲載され、新種として先取権が認められた標本。