「鶴」を歌うと…

遠藤久子

 

傷つき還らぬ兵士ら

12年前に90歳で亡くなった私の母は、死ぬまで傍らで私が歌を歌ってあげるのを」喜ぶ人でした。でも、ソビエト歌曲の「鶴」だけは、母の前で歌えませんでした。その思いを書きます。

「鶴」を歌うと24、25歳ころの母の姿を想像します。「私はふっと思う。傷つき還らぬ兵士ら」「あの列の中の隙間は、もしや私の為に」。

私の母は大正2年2月に新宿区の淀橋浄水場のあった辺りで生まれました。私立の「桜井女学校」を卒業後、杉並区宿町30番地にあった「中島飛行機株式会社東京工場」に事務員として就職しました。

一方、父は大正2年5月に大阪市北区で生まれ、ずっと大阪で育ちました。大柄で強肩、私立桃山中学校在学中は、野球部でキャッチャーとして活躍しました。卒業後は祖父の意向で、台湾の師範学校に入学しましたが「肌に合わない」と一年で帰国してしまいました。祖父が困って、知人の勤務されていた東京の「中島飛行機」(前述)に就職をお願いし、父は上京しました。

父と母は職場の同僚となり、相思相愛になったようで、昭和18年に結婚しました。・・人とも21歳が目前。「仕事」も新米だったでしょうに。

ころが、父は徴兵検査で甲種合格しており、18年3月に「赤紙」が来たのです。陸軍兵として自動車部隊に入隊しました。祖父の記録によれば、「昭和8年8月7日。早朝、浜松駅より軍用列車に乗り込み、途中ほとんどノンストップで西下。外征の途につく(面会の際に曰く、ビルマのマンダレーに向かうと)。このこと8月9日着信のハガキにて知る」。またこうも記しています。「ビルマ派遣軍第3629部隊。山本中隊。其の後、時々葉書の通信ありしが、昭和19年8月23日の着信葉書が或いは最後便なりしか」。

戦病死の公報

これ以降、家族が安否を気遣い続けましたが、昭和20年8月15日の終戦を迎えても、その消息はわかりませんでした。そして昭和21年9月21日になって戦死公報が来たのです。「昭和19年8月15日午後5時0分。ビルマ国カンワ第105兵姑病院ニ於テ、マラリア兼脚気ニ因リ戦病死セラレ候條此段通知候也」と。父の出征後は、母は大阪に行き、祖父母や父の兄そして妹とともに暮らしていました。

昭和19年からは家族が皆、愛媛の宇和島に疎開していました。祖父は父の戦死公報を受け取ってほどなく、気落ちしたのか病死しました。祖母は父の妹に大学を受験させるために、2人で大阪に戻りました。父の兄は外国航路の船乗りで、軍属で軍隊に物資を輸送しており、戦後は大阪中央汽船に勤務しました。

大阪から戻るに当たって、祖母は母にこう言ったそうです。「貴女はまだ若いのだから、実家に戻り再婚を考えなさい」と。しかし、母は2人兄弟の末っ子。もはや実家の両親は死んでいました。祖母の言葉は母にどう響いたでしょうか。

そして、父の忘れ形見の私を、祖母が「育てる」と言ったり、母が「離さない」と言ったりで、5歳の私は大阪に連れて行かれてみたり、宇和島に留まった母の許に戻ったりしました。

母は空を見上げ、「鶴」の歌と同じと思ったでしよう。

 

* ソビエト歌曲「鶴」

1  わたしは ふっと思う

傷つき還らぬ兵士ら

異国の土に眠り

いつしか 白い鶴に

鶴は 昔から今も

訪れては 声伝とう

それ故か いつも切なく

声もなく 空見守る

 

2.日暮れの 霧の空を

疲れた渡り鳥飛ぶ

あの 列の中の隙間は

もしや わたしのために

やがて 鶴の群れとなり

青いタ霧を 飛び立とう

大空へ 鶴の言葉で

世の人々 偲びつつ

 

(参考:「ソビエト 歌 鶴」で検索すると動画も出てきます。きっと聞き覚えがあるでしょう。)