「花子とアン」の空襲のとき我が家も

薄井 敬

 

空襲

2014年9月13日放送のNHK朝ドラ「花子とアン」は1945年4月15日の東京西南部の大空襲を描いていた。大森に住んでいた花子一家は、空襲の中をいのちよりも大切にしている本を抱えて逃げまどった。実は私の家も荏原区(現品川区)中延にあってこの空襲を受けた。当時二人の姉は既に福島県白河市の祖父母のところに疎開、私だけが父母の元にいた。3月10日の東部の大空襲で危険を感じた父母は、白河に全面疎開しようと家具家財を荷造りし、最寄り駅にチッキ(乗車切符とともに割安で荷物を輸送する手段)で預けたその晩に空襲を受け、家もろとも灰燼に帰した。母は私を背中に括り付けて布団をかぶり、焼夷弾の嵐の中を逃げ回ったと、子どもの頃聞かされたことを覚えている。

貧乏百姓の5人兄弟の長男に生まれた父は故郷をでて上京し、様々な仕事を体験した後、クリーニング店に奉公し、何年か勤めて独立、ようやく中延にささやかな店を構えることが出来たわけであるが…。

空襲で家を焼かれたあと、親子3人は白河に疎開した。私の最初の記憶は、多分白河に行った直後だと思うが、家の前の小さな祠の前に腰を下ろしていて、近所の子どもらに囲まれて何か言われている場面と、朝起きたらおねしょをしていたことと、卵かけご飯だ。

終戦後、ゼロからの再出発となった父は単身東京に戻り、食べるのも大変な状況ではクリーニング業の再開は難しいと考え、新宿駅南口に近い、当時の鉄道病院の近くでパン屋を開店、職業軍人だったため仕事がなかった父の弟も一緒にやることになった。母は白河に残り、親戚の豆腐屋の店の一隅を借りて細々とクリーニング屋をしていた。あるとき、その日のタ食の為のお金がなかった母は、急いで洗濯物にアイロンをかけ、届けることになった。私も阿武隈川を渡った先のタ暮れのなんともいえぬさびしい山の方へと一緒について行った記憶がある。のちのち高峰美枝子の”山のさびしい…”(湖畔の宿)の歌を聞くとこの光景を思い出した。ご飯はコメの中に大根やソバ、ジャガイモや、黒っぽいもの(今は何だったのか思い出せない)など雑多なものが混じる雑炊が多かった。子どもたちのお茶碗にはジャガイモが入っていたのに、母のお茶碗には入っていなかったこともあった。父が東京から帰って来る時は、お士産が楽しみだった。といっても気の効いた物などあるはずもなく、ある時の土産は兵隊の帽子だった。でも嬉しくて、その帽子をかぶって近所をお披露目!に歩き回った。(誰も見ていなかったが…)

戦後の貧乏

1949年12月、中野区新井薬師前駅の近くに店を開いた父は私達家族を呼び寄せた。パン屋で暮らすことになった私の歯はたちまちのうちに虫歯だらけになった! 1952年頃、にわかパン屋の売れ行きは思わしくなかったようで、父母は本業のクリーニング屋に戻る決断をした。叔父も一緒で、その後もしばらくは叔父一家との同居生活がつづいた(叔父はクリーニング屋を続ける傍ら、元軍人の経歴をかわれて米軍に雇われてその仕事もすることになった!)。この頃は狭い家に叔父一家と同居で、食事場所が一部屋しかなかったため、朝は叔父一家の食事が終わらないと我が家の食事はできなかった。学校へ行く時間がいつも気になり、ある時とうとう大声で文句を言ってしまったことがあり、この時はほとんど子供達を叱ったことのない母にしかられた。

暮らし向きが子供の目からも安定し出したと思えるようになったのは、戦後10年を経た頃からであったろうか。しかし住み込みの店員も含めて大人数の我が家のご飯はずっと麦飯で(「貧乏人は麦を食え」と言った大臣もいたっけ)、高校の頃麦飯の弁当を持って行った時弁当箱を手で覆うようにして食べて いた。家が貧しくて高等小学校までしか行けなかった父は学歴に対するコンプレックスが強かったようで、よく子供達に「人間は学校に行くとバカになる」と口にしていた。小学生だった私は「大学に行かせてもらえないのでは?」と本気で心配していた。しかし、女三人男二人の子供達全員を大学にあげてくれた。後年、子供が生まれると将来の学資にと郵便貯金をしていたこと、それが戦後の超インフレと新円切り替えで元も子もなくなってしまったことを母から聞いた。私が親のありがたさを知ったのはいい大人になってからだった。幼児の「戦争体験」を下敷きにして、6歳上の姉に連れられて映画「二十四の瞳」を観に行ったり、中野公会堂で行われた原水爆禁止の講演会に行ったりした私は戦争は嫌だという思いをはじめ社会への関心を強めていった。

父親が戦死された方や家族が戦災で亡くなったり、大きな被害を受けた方は沢山いると思う。戸山高校の同期生にもいると思う。私の父は戦場に行かずに済んだので、そういう方々に比べればどうこう言えないが、戦争が普通の市民の普通の生活を破壊するものであることは伝えたいと強く思う。