日中戦争と戦犯だった父の戦後

伊東秀子

 

1. 中国からの引き揚げ

私は、1943年8月15日、日中戦争が終わるちょうど2年前に、旧満州新京の関東軍司令部陸軍官舎で生まれた。父は、その年の7月未、満州の関東憲兵隊司令部に配属となり、その後、鶏寧・東安そして四平・最後は通化の憲兵隊長を務め、1945年8月24日、満州に侵攻してきたソ連軍を通化の駅に迎えに行ったまま連行され、消息を絶った。父はそのことを事前に察知していたのか、朝、家を出る時、母に「今日はどうなるか判らない。子供達を大事に育てるように」と言い残して家を出たという。

その後私たち家族は、敗戦の翌年の12月、母が5人の子供(15歳の長女、15歳の長男、11歳の次男、6歳の三男、3歳の私)を連れて、中国のコロ島まで歩き、そこから船に乗って長崎県の佐世保に引揚げた。当時3歳の私にはこの頃の記憶は全くない。

 

2. 父の半生と満州国の歴史

 私の父上坪鉄一は、明治35年(1902年)4月9日、鹿児島県のさつま半島の突端に近い小さな農村に、4人兄妹の二男として生まれた。祖父の庄之助はとても信仰心が篤く寺総代を務め、また周囲の面倒見も良くてリーダー的存在だったらしい。大変教育熱心で、長男は高等商船学校(後の東京商船大学)を出て外国航路の船長になり。妹2人も師範学校を卒業している。二男の父は村の高等小学校卒業後鹿児島1中に進み、その後、陸軍士官学校に進学した。

 父は陸軍上官学校卒業後、当時海軍の高官だった母の叔父(後に海軍兵学校の校長など歴任)の世話で叔父の家に身を寄せていた母と見合いして、昭和5年2月に結婚した。父は、結婚当時旭川の歩兵27連隊の勤務で、雪深い旭川で新婚生活が始まっている。昭和6年10月、長女の紀恵子が出生したが、その年(1931年)の9月18日、関東軍が謀略により満鉄の鉄道を爆破して中国軍への攻撃を開始したため(柳条湖事件)、父は初めての子供の顔も見ないまま、身重の妻を置いて中国東北部の戦地に出かけていった。そのため、母は九州佐賀に帰って長女を出産した。

 さらに、昭和8年2月に長男宏道が、昭和10年9月には二男隆が旭川で出生している。この3人の子供が出生した後の昭和12年7月7日、関東軍はさらに中国の中心部の華北に侵略を拡大して日中間の全面戦争が始まり(支那事変)、父はこの戦争に参加するため、2年間中国に出征している。この戦争で父は落馬し、大腿骨を骨折したため、以後、憲兵隊所属となった。このように、父と母が結婚して以降、父はずっと日中戦争に関わっている。

 日本は日露戦争(1904〜05年)の結果、中国東北部(いわゆる満州)のロシア権益を受け継ぎ、遼東半島(関東州)の租借権と、東清鉄道南部線の長春―大連間の経営権を継承し、関東都督府、南満州鉄道株式会社(満鉄)、関東軍などを設置して満州経営に乗り出した。関東軍は、武力によるさらなる権益の維持、拡大を画策し、1931年9月18日、石原莞爾らの謀略により満鉄線を爆破、それを中国側の仕業であると主張して中国軍 への攻撃を開始し(柳条湖事件)、東北三省を占領下においた(満州事変)。その既成事実を基にして、1932年3月、日本は、傀儡国家「満州国」を作り上げ、長春は「新京」と改名され、満州国の首都となった。この地で私は生まれたのである。

日中戦争から70年後の2015年9月18日、私は満州事変が勃発した藩陽(旧奉天)に滞在していたが、9月18日午前9時18分になるとサイレンが鳴り、走行中の車が一斉に停止した。これは屈辱的なこの日を国民が忘れない為にと、中国の主要な都市で毎年行われていると言う。加害者は忘れても被害者は戦争の傷痕を絶対に忘れない。私はこの事を改めて痛感した。

『満州事変』について、大多数の日本国民は、中国側の権益侵害に対する日本側の自衛であるとの軍部の宣伝を信じ、熱狂的に歓迎したのである。多くの日本の国民は、関東軍が満州に「王道楽土」を建設するという軍部の宣伝を信じていた。

以後、日本は、華北(中国の中心部、黄河下流域)まで侵略を続け、アジア太平洋戦争へと、足かけ15年に旦ってほぼ連続的に戦争を遂行・拡大し、1945年8月の敗戦を迎えたのである(15年戦争)。

 

3. 引揚げ後の鹿児島での生活

私たちは、日本に引揚げて以後、長女と長男は佐賀県の片田舎に住む母方祖母の許に預けられて女学校や高校に通い、母と下3人の兄妹は父の実家の鹿児島県の農村で、母が人生で初めて農業に従事する生活とな

1946年の暮、私たち母子4人の、鹿児島県の小さな農村の父の生家での暮らしが始まった。母は、内に秘めた強い意思で佐賀の実家に世話になる道を選ばず、夫の生家で自ら農業をやり生計を立てる道を選んだのである。

当時、私は3歳になったばかりで、栄養失調のためやせ細っていたと言う。その後遺症故か、小学校入学まで「脱肛」が続き、母や姉・兄達は「秀子はいつまで生きられるか判らない。この子はとにかく生きていてくれればいい」と言いながら、可愛がって育ててくれた。

母にとって、38歳になって初めて農業をやることは大変であったと思う。しかし、愚痴一つこぼさず、貧乏のどん底にあっても、母には突き抜けたような解放感が漂っていた。「お父さんは必ず生きている」、「こんなに苦労して引き揚げてきたのだから、子供達には本当にやりたいことをやらせたい」「戦争が終わって本当に良かった。3人の息子達を軍人にだけはしたくなかった」と繰り返し語っていた。父がまだ現役だった頃、3人の息子たちを前にして「この子達を幼年学校に入れる」と宣言し、論語・孟子を暗唱させていたという。母はこの言葉を聞く度に「絶対に息子を軍人にだけはさせたくない!」と秘かに思い、満州での特権的な生活の中でも、「よその国を占領し、中国の人達をこき使い、こんな特権的な生活をする等、日本がやっている事は本当におかしい」といつも思っていた、と語っていた。

その頃の母は、よく、縁側で一人静かにお茶を飲みながら、何かを考えていることがあった。そんな時、母はいつも遠くを見つめているような、穏やかな表情をしていた。そんな母の表情が幼い私は大好きだった。今でも母の思い出は、あの頃の母の表情に繋がっている。

4. 帰国後の父

私が小学校5年生の時、中国紅十字会の李徳全女史が来日し、中国にいる日本人戦犯の名簿が公表され、父が生きていることが判った。その時の嬉しさは生涯忘れられない。その後、母は父との面会のために撫順へ行き、さらにその後、京都大学の学生だった二男の隆も友人達のカンパで撫順を訪ねた。2人とも、ソ連に抑留された日本人の厳しい強制労働の話を聞かされていただけに、中国で父たちが受けていた待遇に感激し、大変感謝していた。

1958年、私が中学3年の時、父が帰国した。当時、姉や兄達は進学のため家を離れ、母と2人だけの生活に慣れていた私は、ちょうど思春期だったこともあり、初めて出会った父に対してなかなか心を開けず、また、ソ連と中国の収容所で13年間を過ごした父の規律正しい生活スタイルが、 母と私の生活には馴染めず、夫婦・親子の関係はなかなか円滑にいかなかった。そうした中で父は「戦争だけは絶対に良くない」「中国に対してやったことを思えば、死刑になって当然だった。本当に、中国に対しては、足を向けて寝られない」と事あるごとに語っていた。その父の言葉には本気が漲っていて真に迫る迫力があった。そのためか、その父の言葉が私達家族の魂に深く泌み込み、それが人生の支柱となって今も中国への感謝の心に繋がっている。

かつて憲兵だった父には、帰国後、公安調査庁や防衛庁等に務めないかという話もあったようだが、父はきっぱりとそれを断り、幼友達が経営する出版社でまじめに仕事に励み、私達の生活と学業を支えてくれた。父の性格から、外で戦争の加害を語るようなことは一切なかったが、家の中では、戦争の悪を語り続け、黙々と仕事に精を出し、子や孫に愛情を注いでくれていた父の姿が、今でも胸に焼き付いている。

 

 父は「戦争は、人間を獣にし、狂気にする」と語り、「平時は真面目で穏やかな人間が、戦地に行くとどんな酷いことも平気でする人間に変わる。他人の家の物資を奪い、平然と人を射殺し、女を見れば強姦する。本当に戦争だけはやってはならない」と語っていた。こんな父も自分が中国で何をしたかについては具体的に語ろうとせず、私達もあえてそれを聞こうとしなかった。私が、日木軍が満州で行った残虐非道な行為と父の罪責について具休的に知ったのは、今から5年前のことである。

 父は、貧乏のさ中にあっても、子供達の進路については「目先の事を考えず、自分が本当にやりたいことをやり通しなさい」といつも語っていた。戦前の日本で農村の秀才が立身出世するためには軍人になるしかなかったのであろう。そのために中国の侵略戦争に従事することになった自分の半生を振り返り、父親として魂の底から発した子供たちへの伝一言だったと思う。そして、父は、人生の最後に「兄弟仲良く過ごしなさい。絶対に戦争を起こさないように、日中友好のために、力を尽くしなさい」という遺言を残し、83歳で他界した。

5. 日本人戦犯たちの「認罪」

 敗戦と同時にソ連軍に連行された父は、約5年間、シベリアのハバロスクで多くの日本人捕虜と共に強制労働をやらされたという。しかし、1945年に中華人民共和国が設立した翌年、日中戦争に関与した者約1000名は中国政府に引き渡され、撫順の戦犯管理所に収容された。そして当時の周恩来総理をはじめとする中国政府関係者は、日本人戦犯に対し、人権と人道主義に基づいた処遇と教育を行った。建国直後で中国人が白米を食べることは犯罪とされコーリャンしか食べられない大変貧しい国情の中で、日本人戦犯には日本人の食習慣に合わせて白米や肉・魚を食べさせ、運動や読書・趣味の活動・健康維持を保証するなど人道主義的処遇を行った。そうした中で、戦争中に自らが行なった犯罪的行為に一人の人間として向き合い、なぜ中国に来てそのような非道な行為を行なったのかを考えさせる教育を行なったと言う。その教育は抗日戦争を勝利に導いた革命的精神に立脚した処遇と教育であったということを、後になって私は知った。その人道的な処遇が日本人戦犯たちの魂を揺さぶり、人間としての良心と罪の意識を、深く目覚めさせていった。当初、自分たちが中国人にやったと同じく死刑相当の処刑を受けるであろうと覚悟しつつ、「軍の方針に従っただけで、個人には責任はない」と反抗していた。そんな中で、戦犯管理所の職員のほとんどが日本人に家族を殺された苦しみを持っていたにもかかわらず、職員達は誠実かつ真面目で忍耐強い態度で戦犯達に接していた。そして日本が中国を侵略するに至った歴史・その根底にある帝国主義的な思想を学習し、戦犯同士の自己批判・相互批判を重ねる中で、次第に被害者の立場や感情に立って自分の行った行為を内省するようになり、居ても立っても居られない罪の意識に苦しむようになったという。それが父たちの人間性を根底から変え、その後の父や家族の生き方に絶大な影響を与えてくれたのである。

私は思春期の頃初めて父に出会ったために、男性である父が疎ましく、口もきかずに反抗ばかりしていた。しかし、「本当に中国に対して済まない事をした」「戦争だけは絶対にしてはならない」と語り続け、戦争の責任を「軍」や「国」などに転嫁せずに自らの罪として背負おうとしている父の姿に、心を閉ざしていた少女の私も段々心動かされるようになり、父に対する尊敬の念が深まっていった。そして私だけでなく、子供達みんなが「反戦平和」と「永遠の日中友好」を深く胸に刻んで生きることになったのである。人間の『本気』の持つ無限の力を、私は父から教えられた。

 

6. 戦犯たちの釈放

約1000名の戦犯の取調べと供述書の作成が終了した1955年−56年初頭にかけて、戦犯の最終処分の検討が始まり、周恩来首相の主宰する中央政治局会議では、日本人戦犯に対する寛大処理の原則(判決は軽く、1人の死刑も無期刑も言い渡してはならない)が決定された。しかし、これでは中国の民衆の憤懣が抑えられないとの理由から抵抗や不満も出された。しかし、結局、1956年4月、人民代表大会は最終的な処理方針として、「主要でない立場の者と改俊の情が著しいものは寛大な処置として起訴免除する」との方針を出し、1956年7−9月、1069名のうち45名を除いた全員が起訴免除となって釈放され、帰国したのである。

釈放する前に、周恩来主席は、この起訴免除の理由について「20年先の中日両国人民の友好関係の発展を考慮して」と説明したと言う。その後、私の父は、45名の戦犯の一人として裁判を受け、ソ連での抑留や未決勾留期間も含めて「禁鋼12年」の刑を宣告されて1年後に釈放され、帰国した。裁判では、ひとりの死刑も無期判決もなく、最高刑が20年で、ほとんどが満期前に帰国した。

7. おわりに

私が父の具体的な戦争犯罪を知ることになったのは、2010年7月に初めて撫順の戦犯管理所を訪ねた時である。そこに展示してあった父の起訴状を見た時、身体中から血の気が引き、立っていられない程の衝撃を受けた。父の起訴状には、「上坪鉄一は731部隊に中国人22名を送った」事実が書かれていたからである。晩年、真面目に働いて子や孫にあり余るほどの愛情を注いでくれたあの父が、軍人時代に、非人道極まりない生体実験のために、こんなにも多くの中国人抗日運動家を731部隊に送っていたとは!

 私は自分の心がバラバラに張り裂け、感情が凍りついていくような気がした。

 あれから5年

私は、今年の九月、北京で行われるシンポジウムでスピーチすることになり、また藩陽を訪ねた。藩陽の街や撫順の戦犯管理所の中を2日間に亘ってゆっくり歩いた。その時に通訳として同行して下さった大連理工大学の周桂香先生は、日本語が非常に上手な女性であったが、山東省の出身の祖母や母は、「三光作戦」を行った日本軍への憎しみが癒えず、未だに日本人や日本語を忌み嫌っているという。周先生が大学に進学した時期が、ちょうど日中国交回復直後であったために、大学の方針で否応なく日本語学科に所属することになり、現在も日本語を大学で教えている。それなのに、先生のお母様は娘の日本語に係わる職業がどうしても受け容れられず、母上の方から親子の往き来を絶ってしまわれたと言う。「母は孫の顔を見たいでしょうに、私の家に来てくれないのです」と、周先生は目に涙を浮かべながら、日本人の私に、この悲しい事実を語ってくれた。

私は、その後、3000人余りの村人を虐殺した平頂山事件の跡、満州事変や日中全面戦争の史実を詳しく解説・展示している9・18記念館、父が裁判を受けた特別軍事法廷にも行った。特別軍事法廷への階段を一歩一歩昇りながら、判決の日の父の心を想った。

判決を受ける日、父はどんな気持ちでこの階段を上ったのだろうか。

生前、父は「戦争は人間を獣にし、狂気にする」「絶対に戦争をしてはいけない!」と絞り出すような声で語り続けた。あんなに真面目で愛情深かった父と100人以上もの中国の人々を拷問にかけ、多くの抗日運動家を731部隊に送った父。この落差が「戦争は人間を獣にし、狂気にする」ことの証しであろう。

「戦争は、あまりにも残酷で、誰にとってもあまりにも悲しい。戦争だけは絶対にやってはならない」

私は、改めてそのことを深く胸に刻みながら、中国を後にした。