戦時体験・戦後体験――私の場合

石原邦雄

 

前書き

Kさんの寄稿(「若いみなさんへ」)による問題提起に触発されて、多くの方々から発言が寄せられ、それぞれに大変共感もし、啓発されました。問題は二つの面があると思いました。ひとつは、今日の政治情勢と社会状況を危機的あるいは危機の始まりととらえて、とりわけ若い世代にそのことを訴え・伝えていく必要性、ということ。もうひとつは、我々自身が、戦時体験・戦後体験を再確認することの重要性ということかと思います。そして第二の点は、戸山高校の同期生としての交流を続けている我々にとっては、共通した高校教育を戸山で受けたことの意味を考え直すという課題にもつながっていると思います。

私は長らく大学教師をしてきたので、若い世代と常に接点を持ってきましたが、授業その他で政治問題をストレートに取り上げることはしてきませんでした。それは、一方的な政治論議やイデオロギー論議を持ち込むことは教育として望ましくないという考えがあったからではありますが、一面では、確信をもって語らずにはおれないという見方を自分なりに打ち立てていないことの表れでもあったと思います。それは、教育の場という条件に限らず、家庭でも自分の子供たちに対しても積極的に戦争や政治の話をしてこなかったことにもつながっています。

この3月で職業生活から離れてみると、もう少しやりようはあったのではないかという反省はあります。下の世代との接点という意味では、63歳の1回目の定年退職まで四半世紀勤めた大学での教え子たちと、スキー合宿と称して毎年冬にスキーに行くグループが20年以上続いていて、私にとっての一つの財産になっています。レクリエーションとともに、職場生活や家族生活の経験交流としても貴重なものですが、そこでも政治課題や戦争の危機などにまでは話が及びません。Kさんの問題提起と若い世代への呼びかけについても、内容は共感できますが、そうした手近なところにも、まだ球を投げてみるところまで踏み切れないでいます。

さて、そんな状況で、もう一つの方の課題については、自分たちと同世代の者同士の交流として、高校時代とそれ以後の共通体験を確かめ合うことは比較的容易なことですが、その同期生たちが、それ以前の戦中戦後の時代にどのような生活経験を持って戸山高校生となっていたかを知りあうことは、大変貴重な試みであると思います。とりえず、その面での私の体験を書いておこうと思いました。

 

戦時体験

 他の方も同様と思いますが、 1943年生まれの私には、第2次世界大戦にかかわる直接の記憶はありません。身近な人から聞いた話が間接的な体験となっていることが少なからずあります。4歳年上の兄からは、空襲の際に防空壕に逃げ込んだことや、B29爆撃機に日本の戦闘機が体当たりして撃墜した様子を眺めていたといった話を聞いています。父方の伯父一家が満州から引き揚げて来て我が家に身を寄せていた時期があることは、かすかに記憶しています。母方の叔父がニューギニア戦線の生き残りであることは聞かされていましたが、具体的な戦場での体験を聞いたことはありません。父は鉄道省勤務で、アルバムに出征の記念写真はありましたが、入隊は3日ぐらいで職場に戻ったということで、戦場には一度も行っておらず、親戚にも戦死者はいなかったので、間接的にしても戦争体験やその影響を実感することは多くありませんでした。戦時の影響として、自分には記憶はありませんが、乳児期に母乳が出ず、栄養失調の結果から失明の一歩手前の状態に陥り、母が私を背負って米軍機の機銃掃射の恐怖の中を病院通いしたこと、父が職場のつてで手に入れたぺにしりんオステリンというビタミンの複合剤の注射液が尽きたら失明を覚悟してくださいと医者に言われたが、かろうじて回復が間に合ったといった話を繰り返し聞かされてきたのが、私の記憶以前の体験になっています。そのほか、空襲や疎開のこと、多くの着物とイモやコメと交換した買い出しのことなど、主に母からあれこれ聞かされたことが記憶に残っています。

もうーつ、母から何度か聞かされて、刷り込まれている戦時期のエピソードがあります。本士空襲が激しくなったころ、父は兵役には就かなかったけれども、鉄道の本務のために家に帰らぬことも多かった状況で、母に一言い置いていたことがあった。空襲を受けて危ないときは、他のものは捨ておいてよいから、子供と一冊の本だけ持って逃げろ、それさえ維持できれば、日本は滅びないと、母に伝えていたという。その一冊というのを、母は「古事記」であったとずっと私たち子供に話していた。これは我が家における一つの伝説となっていたものだが、私が大人になって以後に、これは若干の脚色があるのではないかと思うようになった。一冊の本というのは、実は「日本書紀」であって、母が意図的にそれを「古事記」と修正して子供に語っていたと思われたのです。

母は戦後の民主主義思想をかなり積極的に受け入れていた人であり、子供たちの側も学校でもそうした教育を受けて育っていたから、天皇制の維持こそ国の基盤だという考え方を受け入れにくかったし、子供にも伝えにくかった、あるいは伝えたくなかったのだろうと、私は今では推察しています。これについては、母と直接話をしておけばよかったのに、なんとなくそこまで話をすることもないまま、父も母も送ってしまったのを残念に思っています。

 


戦後体験

私には敗戦後としての記憶しかないわけですが、その中での一番古い記憶のーつは、兄が友達とバケツにたくさんのザリガニを捕ってきて、それを満州帰りで同居していた伯母が調理して食べさせてくれることになった場面、ただし母は、大きな通りを渡って遊びに行くのは、進駐軍のジープにはねられて死んでしまうから絶対ダメと言ってひどく叱っていたという場面です。

むしろ敗戦後体験ということでは、そのあと3歳ごろに九州の小倉に父の赴任とともに転居してからの記憶はいろいろあります。

国鉄の官舎のすぐ近くが米軍に接収された元の兵器廠だったので、列車の引き込み線のあるそのゲートには、銃を構えた米兵が常に警備しており、それが怖くて近寄れなかったこと。兄たちは米兵のジープを追いかけるとガムやチョコレートを投げてもらえるのだといったことを話していたけれど、私はそれもうらやましいというより、やはり怖くて近寄れないという気持ちだったことも思い出します。

また、占領期ということでは、国鉄の業務も進駐軍とのあれこれの折衝や付き合いが必要であったようで、住んでいた官舎の広間で「アメリカさん」とのダンスパーティがたびたび催され、両親がダンスの先生の指導を受けながら、そうした社交をこなしていたのを、子供心に楽しくない気分で受け止めていたことも思い出されます。あれこれの外国のダンスのレコード曲に交じって、なぜか歌謡曲の「湯島の白梅」もダンスの曲としてよく流されていたのを覚えています。もうーつ当時の経験で印象深いのは、天皇が全国を巡幸して敗戦後の国民を励ますということがなされ、その「お召列車」が見られる道路に人々が並んで待ち、列車がゆっくり通過するのに合わせて、小旗を振ったり、万歳を唱えたりするのを、手をひかれながら見て、万歳を唱和するように促されたけれども、なにか恥ずかしくてできなかったことも記憶している。その後我が家のアルバムには、お召列車の窓を開けて立って沿道の人々を見ている天皇の写真も貼られていたので、それも何度か見ながら、記憶が固まっていったと思われます。

もうーつ小倉時代の記憶に残るエピソードは、国鉄の大量解雇に反対する激しい労働争議の一端との遭遇であった。地方の部局の責任者であった父の官舎にもデモ隊が押し寄せてきて、労働歌や革命歌が大声で歌われ、板塀の上にまたがって旗を振るものがいたりと、騒然とした状況にあったなかで、兄と私は父の部下の職員に連れられて官舎を抜け出し、八幡市にいた伯母の所へ数日間避難させてもらうということがありました。それについては何か大変なことがあったという感じはしていましたが、特に怖い思いをしたという記憶にはなっていません。むしろ親と離れて初めて親戚の家に泊まるということになったなかで、それがさみしいとか心細いとかいう感覚もあったかと思われますが、それもさほど記憶されるものにはなっていません。その時のことで一番強く印象に残っているのは、タ食後、伯母夫婦が我々兄弟の応対をしてくれているところで、居間のふすまが開いて、その家の子供たち、つまり従兄弟たちが次の間に正座して、「お先に休ませていただきます」と手をついて挨拶して寝室に行くという場面があったことです。自分の家とはずいぶん違った家庭生活がなされているようだというショックと違和感があったことは、今でもよく覚えています。

 以上が、記憶以前の私の戦時体験と、2歳から5歳くらいまでの、埼玉県大宮市と福岡県小倉市での「記憶された戦後経験」の断片です。その後東京への転任に伴って都下の国立に移転してそこで小学校に入学、5年生の秋に札幌に転居、中学一年の春休みに再度東京に転居して中野に住み、区立第5中学校を卒業。そして当時の学区制のもとで、「越境入学」して戸山高校生になったというのが、私の高校生になるまでの道順(ライフコース)であったといえます。この間の学校生活や転居・転校を伴う生活経験、友人や先生との関係など、人間形成史にかかわるあれこれの面をたどることができると思うし、とりわけ戸山高校の教育で開花していた民主主義・平和主義・科学主義の価値観や社会問題への関心の持ち方などは、少なからぬ影響を受けた人生経験であり人間形成過程であったと思います。

今日、個人としては老年期に入った中で、社会情勢としては、すでに新しい戦前期に入っているのではないかという危機感をもたざるを得ないような時代の転換点にあって、とりわけ高校時代を共有している仲間たちと、自らを振り返り、社会の問題への対し方について語り合えること、そしてさらにそれを何らかのアクションにしていくことを模索するということは、大変貴重なことだと実感しています。