疎開

石田郁子

 

戦後70年という節目の年だからだろう。いつもの年よりもより多く、より鮮烈な戦争体験が今年は語られている。それらの体験を読むにつれ、自分自身の体験なぞ取るに足りないものに思えてくる。このまま、書くのを止めようかとも思ったりする。しかし、この与えられた機会は、自分の戦後体験を思い出すまたとない貴重な時でもある。その機会を無駄にすることは惜しい。

 

家族がバラバラに

私は昭和18年4月に東京の大田区北千束に産まれ、昭和20年、終戦を迎える前に茨城県に疎開したが、幼くして疎開先で物心が付くまでのことはほとんど知らない。ずーっと疎開したのは20年4月だと母親から教えられたと思っていたのだが、3歳上の姉の話によるとどうもそうではないらしく、同年6月か7月だったらしい。この間の1ケ月2ケ月はたかがでは片付けられない。昭和20年2歳になって間もなく、終戦を目前に控えての疎開だったようだが、疎開した先は茨城県の今の土浦市。最初は予科練のある阿見だったらしいが、いよいよ終戦間際、危険も迫り霞ケ浦の対岸の地、高野(こうや)に移り、さらに当時の新治郡上大津村字田(田村と呼んでいた)に移り、そこで物心が付いた。今だったら考えられないほどの襤褸(ぼろ=ぼろ布)を繕い(つくろう=縫い合わせて修理、修繕する)、粗食の毎日だったのに、まだ物心が付かない私の幼児期がこの国の一番大変な敗戦前後の時代が重なり、周囲を見ても自分同様。それでもまだ食べるものがあり、屋根のある家に住まうことができ、着るものがあったことで、恨むことも悲しむこともせず、ぼんやり、のほほんと戦後の時代を過ごしてきたような気がする。また、周囲の大人は戦争のことを語らず(思い出すことに耐えられなかったのだろう)、聞きもせず(大人たちは、触れられたくないような感じがした)、周囲を見回せば皆が皆自分と似たような生活をしている。物心が付いたばかりの私には、これが当たり前なんだとなんら疑うこともしなかった。何もない中で、ひたすら楽しみを見つけようとしていた自分を今は愛おしいと思う。

昭和20年3月10日の下町地域への東京大空襲の後、私が生まれた北千束辺りにも頻繁に焼夷弾が落とされるようになったという。家の近くも危なくなり、疎開していく家も多くなったようだ。今年(2015年)3月、兄の学童疎開の体験を聞きに横須賀に住む昭和22年生まれの次兄を訪ねた。その年の4月、赤松国民学校(赤松小学校)に入学したばかりの兄は5月に富山県の福光という松村謙三代議士の出身地のお寺に集団学童疎開をしたとのこと。疎開する直前に家の庭にあった溝で左肘を怪我し、左手を三角巾で肩から吊るした状態での疎開だったそうだが、腕の怪我のためもたもたしていると、「なんだ貴様は!」と寮長から怒鳴られたそうで、疎開というとまずこのことを思い出して、辛くいやな気持ちになるのだと言う。七歳上の長兄はそれ以前にすでに学童疎開していたらしいが、大人たちの裏の姿(ずるさ)を垣間見ることも多く、大人たちが信じられなくなり、人格形成にマイナスの影響を受けたような気がする。若くして不幸な死に方をした長兄だったが、ここにも戦争の影が重くのしかかっていたに違いない。

次兄が疎開して間もなくの5月25日、新宿界隈への空襲で祖父が淀橋に持っていた家作10軒が全焼したという話はよく親から聞いていた。物心が付いた私の記憶に残る祖父は大分もうろくしていたが、この空襲による家作の焼失は祖父にとって実に大きなショックキングな事件であったろうと、今は想像している。だれもかれもがみんな大きな穴を心に開けたまま、家族を生かすために懸命に生きた。それこそ一生懸命に。祖母は中気のため我々と一緒に疎開することが出来ず、何所帯もの人が住みついていたわが家に住む一家族に託して千束の家に残った。戦争により、疎開により、多くの家族がバラバラにさせられた。

 

疎開から戻って

学童疎開先では粗末な食糧事情故に、どんなにお腹を空かせたことだろう。間もなく敗戦で戦争は終わるが、叔父の迎えで疎開先の我が家に帰ったのが20年9月。兄は学童疎開先の富山県の福光から叔父の迎えで引き揚げてきた。常磐線の土浦駅で下車し、そこから舟で対岸の沖宿へ、さらに徒歩で高野(こうや)の家族のもとに辿り着いたのだという。疎開先から親元に帰り着くまで、その一人ひとりみんなが大変だった。兄はあまりにも痩せ細っていて、医者は「よくこんな状態で生きていた」と驚いていたと言う。医者の診断では極度の栄養失調からくる「肺浸潤」で、1年生の2学期いっぱいは学校を休んだとのこと。その時お世話になった家は浜岡さんというかなり大きな農家で、その家の離れを貸してもらったのだそうだが、その家には同級生の男の子がいて、その子が仲良くしてくれたのが救いだったと言っていた。

兄は学童疎開していたので、親元に帰るまでのことは詳しくは知らないが、多分我が家の疎開は6月か7月なのだろう。最初は茨城県の阿見だったことは私も知っていたが、どうして予科練のある阿見だったのかその訳は聞いたことが無く勝手に想像していたのだが、兄の話を聞いてその通りだったことを知った。父は心理学を専門とする人間、兄の話によれば父は阿見の予科練航空隊の嘱託か顧間だったようだ。黒塗りの板飛行機を作り、まだ日本に十分戦力があるのだと、敵を欺く研究にでも関わっていたのだろうか。父にとっては子供に話したくない大きな傷だったのだろう。終戦直前、いよいよ阿見も危なくなり、対岸の高野(こうや)に移り、さらに21年1月に私が物心が付く霞ヶ浦と筑波山の見える田村に移った。これで幼くて空白だった自分史がつながった。

 

田村での暮し

田村(茨城県新治郡上大津村字田。今は土浦市田村町)の家の前には霞ケ浦まで延々と水田が広がっていた。今は全部蓮田に変わっている。水田地帯は湖畔を走る県道を挟み小高い台地となっている。我が家はその中腹にあり、右手には筑波山が見えて風光だけは明媚だった。その中で私は全くの自然児として育った。我が家の1軒上に1歳年上の女の子がいて、私はたまにままごとなどして遊んだこともあったが(床屋さんごっこで、前髪をジグザグに切られてしまったことがあったっけ)、大抵は自然の中で1人で遊ぶか、兄や姉の後について回っていたような気がする。小学1年生に上がるまでのほとんどの時間を自然と戯れていたわけだ。東京の家は幸い空襲で焼けることもなく、母は何やかやいろいろ用事もあったのだろう、時々上京して疎開先の家を留守にした。また病気で入院ということもあったようだ。そんな時は近所の人がご飯の支度などを手伝ってくれることもあったが、小学低学年の3歳上の姉に家事の仕事が重くのしかかっていた。私も小学校に上がるか上がらないうちから、家事を手伝った。それでも私は小学校に上がるまでは、母を独占できたこともあり、母への恨みも持たなかったが、姉は「あれでも母親か」と、今でも恨み言を言う。当時の姉の辛さを想像すると、ここにも戦争の被害があったと思わざるを得ない。

我が家は杉の皮で屋根が葺かれ、壁は泥に藁を混ぜた漆喰、土間があり、簡易な竈(かまど)があった。冬には篭(かご)を背負って姉と2人で裏山に杉の葉を集めに行ったものだ。その杉の葉は土間の一角に積んであり、竈や風呂の焚きつけに使用した。家の外にはちょっと離れたところに、そんなに深くはない井戸があった。その辺りは地下水が染み出し、宅地としては余りいい場所ではなかったのかも知れないが、家と井戸との間には細い流れがあり、そこにセリやミツバなどが生えていた。

私は1人で田圃(たんぼ)の畦(あぜ)などで草を摘んだりして遊んでいたようだ。お陰で野草大好き人間に育ってしまったが、集団学童疎開した人たちは、とにかく飢えを凌ぐために食べられるものは何でも摘んだという。幼い日に私は楽しく野草を採ったり、小さな生きものを捕っていたが、戦時生きるために必死で食べられる草を探していた人たちには、今更野草摘みでもないようだ。見るのもいやなのかも知れない。

我が家は辛い中でも父のユーモアに救われることが多かったように思う。父は士曜日に疎開先に帰り、月曜日にまた東京の家へ戻っていった。父は土浦と田村の片道1里半(6km)の道程を徒歩で、 そして土浦から東京へ汽車に乗って、毎週毎週行き来する生活が5年も6年も続いたわけだ。ご苦労なことであった。優しく、面白い父であったが、それでも週1度しか帰って来ない父に私は甘えることが出来ないまま大人になってしまった。「あの人だあれ?」という感じで父を見ていたような気がする。

東京の家は焼け残ったが、戦後焼け出された人が多く住み付き、疎開先を引き揚げることは不可能ということで、「んだっぺー」で物心が付き、小学2年生の2学期終了後、疎開先を引き揚げ、神奈川県横須賀市の久里浜に引っ越したが、そこでも戦後の物資のない生活はまだまだ続いた。