呉から石井へ

石井延洋

 私は小学校時代まで台湾の中部台中から30分位の南投県竹山鎮で育ち、卒業後東京に来ました。世田谷区松原で母方の祖母、叔母、兄、叔父と一緒に暮らすようになりました。松原小学校の教頭先生から5年生に編入したらとのアドバイスを受け1年留年ということになりました、なので皆さんより1年年上になります。

 父親が大陸(多分福建省)から台湾へ渡った漢民族の子孫で、勉強がよく出来たという事で町から資金が出て、日本へ留学しました。本来は東京の大学だったが岡山大学の医学部に入り、昭和10年に卒業しました。インターン時代に母親(石井)の弟の往診に行ったときに恋が芽生え岡山の安田さんの世話で結婚しました、兄(明)が生まれ私が17年岡山県の味野で生まれ、父方の親が危篤との事で急遽台湾に戻らなくて はならなくなり、船で台湾に行きました。その船は日本に戻るときに撃沈したそうです。 兄(明)は母方石井に預けられ日本に残りました。私は昭和29年夏日本に来る時まで兄には会ったことがなかったのです。

 父の姓名は呉登山で母親の石井を名乗り名前も克彦に変えました。結婚の時に最終的に日本に帰化することを約束したのだと私は本人たちに確認していないが、推測しています。私も台湾時代は呉延洋という名前でした。日本に来て石井を名乗るようになったのです、一時琴坂を名乗ったこともあり、三回も名前が変わりました。不徳の致すことで恥ずかしい次第ですが。ざっと個人的な事情を書きましたが、台湾時代の小学校でスターリンはモンスターだと教えられていて日本に来て初めて人間であるとの認識をしました。教育の 恐ろしさを覚えました。

 今の政権は情報を操作しています、政府関連のニュースの多い事、ニュアンスの微妙な事、都合の悪いニュースをタイミングよく外すことなどなど…。大きな歴史の流れを変えるのはめちゃくちゃ大変ですが皆が少しづつその心算で積み上げて行けば少しずつでも変わる、また早いうちに変えないとダメです。雪かきの要領と同じ早いうちにしないと雪が踏まれて地面にくっ付いてかき難くなります。早いうちにやらなくて はなりません。