土下座する元上官

井伊直允

小学校校長先生の祝辞

私達がこの国に呱々の声を上げてから1、2年後に現憲法が施行されました。

従って私達同期生の仲間でその時の状況を体験・知見した者は一人もいません。ましてや終戦直後の日本のこと等誰も知りません。

それにもかかわらず私達は戦争の悲惨さ・非人間性を知っており、現憲法の素晴らしさを肌身に感じています。それは私達の親・兄姉そして先生や近所の人達から話を聞いたり写真を見たり、はたまた身近に戦争の犠牲者がおりその方達からの戦場の話を聞いたりしたからです。そしてその人達の口からは異口同音に「もう二度と戦争をしてはいけない」と発せられたのです。

「戦争の放棄」はその人達の心からの誓い願いであり、誰かが言う様に「押し付け」られて言っているものでもなければ嘘を言っているものでもありませんでした。

私が入学した新宿区立東戸山小学校の入学式(終戦から既に5年)でこんな事がありました。 私達の入学を祝って迎えてくれた校長先生がその祝辞の中でこう発言されたのです。

「私は終戦の前から校長を務めており、君達のお兄さんやお姉さん達に、”日本の為に戦場で死になさい”と教育してきました。幼かった子供達とその親御さん達に大変中し訳ない事をしました。今後、私は君達を二度と戦場に行かせない為に身命を賭していく積りです。」

 憲法九条は、こうした先輩達の血涙流れる反省の上に立って国民に受け入れられたのです。当時保守・革新を問わず「戦争の放棄」は国民何百万人の血で贈われた決意として世界に表明されたのです。自分は戦場にも行かず一滴の血を流す積もりも無い「戦争フェチ」の幹事長や膨大な薄汚い利益を財界にす(もたらす)見返りに、自らの政治を支持して欲しいお坊ちゃん首相などの為に変えられてはなりません。

二人の戦争体験者

私達同期生の仲間内でその時の状況を体験・知見した者は一人もいません。それにもかかわらず私達が戦争の悲惨さや非人間性を知っているのは、私達の親・兄姉そして先生や近所の人達から話を聞いたり、はたまた身近に戦争の犠牲者がおりその方達からの戦場の話を聞いたりしたからです。私が何人かの先輩達からお聞きした「戦争体験」のお話を二話お伝えしたいと思います。

最初の「戦争体験」は、社員30名程の中小企業の社長であったN氏の話です。N氏は既に20年前に鬼籍に入られていますがご健在だった頃の話です。N氏が同席した会社の或る年の「暑気払い」の席上、社員の一人が「同期の桜」を歌おうとした時でした。「若い者がソンナ歌を歌うものじゃない!」とストップを掛けたのです。後日同席した専務(N氏の創業仲間)から以下の様な話を聞きました。

N氏は立教大学在学中に召集令状を受け、直ちに海軍鹿屋航空基地に配属されました。其処では「特別」攻撃隊の要員として、離陸・飛行・体当たり(急降下〕の訓練を受け着陸の訓練はなかった(一番難しい技術)そうです。そしてなんとか離陸が出来る様になった3ケ月後、基地に配属された「同期の桜」達に出撃命令が出されました。N氏の出撃順番が同期仲間の最後であったので仲間の見送りで数日が過ぎいよいよ明日が白らの出撃という段になって、突然「終戦の詔勅(玉音放送)」を聞かされたそうです。自らの命は危機一髪で助かりましたが、同期入隊の仲間の中には立教大学時代からの友人もおり、その友人の一人は「帰らぬ飛行」を終えていたそうです。

二番目の「戦争体験」は、私が稽古に励んでいる詩吟の会で今年米寿を迎えられたお歳にもかかわらず朗々と吟詠される警視庁・元警視正のS氏の話です。

S氏は筑波山北麓の農家に八人兄弟の三男坊として生まれ、15歳の時家計を助けるため「海軍特別年少兵」に志願されたのです。採用されて間も無くニューブリテン島・ラバウルへの赴任を命じられ任地に赴く途上ビスマルク海で米軍の機雷攻撃を受けて海上に投げ出されたそうです。幸いにして甲板の端切れと思われる板を見つけそれに掴まって暫く洋上を訪裡っていた処、同じく洋上を訪樫っていたS氏の上官が彼を見つけ「おいS!その板は俺が先に見つけたのだから俺に寄越せ!」と無理やりに奪い取ったそうです。S氏は掴まる物を奪われ素手で泳ぎながら鮫に見つかる事もなく約4時間後に付近の捜索に当っていた味方の船に救助されたそうです。これには後日談があり、終戦後何年目かにS氏が靖国神社に参拝に行った時「オーイS」と呼掛ける声が聞こえ、振向くと其処には例の上官が立っていたそうです。彼はS氏の顔を見るなりガバッと膝を折り土下座をして「S!生きていたのか、良かった。アノ時の事は許してくれ、アレ以来お前の事が気になって気になって仕方が無かったのだ」と許しを乞われたそうです。

以上二つの「戦争体験」から言える事は、いみじくもK君が言っている以下の事に集約されるのではないでしょうか?

「戦争は何世代にもわたる人びとの努力の成果を破壊するだけではありません。恐ろしいことは殺されることだけではありません。一番恐ろしいことは、戦争によってわれわれの仲間の中に人を殺せるような人がたくさん作られ、また人を殺したり傷付けてしまったことを悔やんで一生を悶々と過ごす人をたくさん生じてしまうことだと思います」(城北会誌62号p.13)

*海軍特別年少兵: 昭和16年に海軍が創設した14〜16歳の少年兵