父の生き方に今思う

                秋山英行

 

私が生まれたのは昭和18年6月でしたので昭和20年8月の終戦の時や終戦直後の2、3年まではほとんど記憶に残っておりません。ただ20年の初めに父の田舎の宮城県登米市に疎開し叔母の家に母と妹三人でお世話になったことがわずかに記憶に残っております。22年に台風により北上川が氾濫して叔父におんぶされ川を歩いたことがわずかに思い出されます。そして23年9月に父が東京より我々を引き取りに登米市に来て、東京の笹塚の小さな家に引き上げてきた頃から記憶がだんだんとはっきりしてきました。

 

職業軍人の父

この時代の事を思い出すにはやはり父の事を書かねばなりません。父秋山穂積は明治45年宮城県登米市の貧しい村の家の次男として生まれました。秋山家はその昔豪農でしたが事業に失敗し父が生まれたころは貧しい農家になっておりました。父は小さい時よりよく勉強をして中学卒業後第二高等学校(現東北大学)に受かりましたが、お金が無いので入学をあきらめました。それを見てふびんに思った中学の校長が書生として仙台に呼び東北大の医学部に行くよう浪人をさせました。しかしながらお金が無いので東北大を受けるのを断念し、逆にお金がもらえる陸軍士官学校をうけ無事に合格しました。支給されたお金を実家に仕送りをしました。陸軍士官学校48期生です。卒業後は航空隊に所属し満州牡丹江部隊にいました。多分そのままいましたら例の「ノモンハン事件」で戦死したと思います。しかし運があったのかノモンハン事件1年前に父は結核にかかり、広島の江田島の海軍兵学校に療養のために来ました。そこで上司の紹介で母と結婚しました。その後千葉県の下志津飛行学校の教官になり千葉県四街道に住みました。それ故私は千葉県で生まれました。20年2月に生まれた妹は飛行学校の名前をとり志津子とつけました。

 

戦後の父

父は戦争前は職業軍人で(最後は少佐)戦後は180度価値観が変わった世界に投げ出されました。半分ぐらいの元軍人はこの大変化した世の中についていけず、没落したり、病にかかり死んでいきました。父は意志が強かったのか、鈍感なのかわかりませんがこの大変化した世の中に順応することが出来ました。頭を切り替え日本鋼管にいれてもらい就職しました。そして東京で落ちついた23年に疎開先の宮城県登米市に来て母、私、妹を東京に連れて戻りました。この辺から私の記憶もだんだんと鮮明になってきました。

父は日本鋼管からすぐに子会社に派遣され、今にも潰れそうな会社の経営に参加して、我々家族は何時も”潰れる、潰れる”と脅かされ本当に暗い毎日でした。本当に父は戦争前の事はほとんど何も言わず毎日、毎日を過ごすことが目的で仕事に没頭しておりました。私の後で生まれた弟を入れ家族5人でどこかに連れて行ってもらった楽しいことはほとんど記憶にありませんでした。子供の面倒はほとんど母が見ており、父は仕事一本で休みは家でごろごろしておりました。子供は官立の学校を出て将来は役人になる事を望んでおりました。やはり自分が勤めておる会社が潰れる心配に悩まされ子供もそのような環境にしたくなかったためだと思います。

 さて宮城県登米市からの疎開から東京に家族5人で住むようになってからは段々と当時の記憶が蘇えってきました。なんといつても食糧不足の貧しい生活が思い出されます。お米は登米より送ってもらいましたので何とか食べることはできましたがおかずは卵焼きかうずら豆がご馳走でした。またアンパンを買いに行くのが唯一の楽しみで、ミカンの缶詰も高価な食べ物でした。また小学校の給食での脱脂粉乳のミルクのまずさには参りました。鼻を指でつまんでいつも一気に飲んだ記憶があります。おかげで大きくなっても、牛乳、チーズはそれが原因で大嫌いになり今でも食べるのが苦手です。小さい時の娯楽としての遊びはメンコ、ベーゴマでまたラジオの連続劇や歌を聴くのが楽しみでした。父は中小企業の役員でしたが何時も家族に潰れることを覚悟しておけと、言い続けておりました。私も結局その後大学も官立には行けず、また役人になれなかったことは、父の期待に反したことになりました。

 

仕事と晩年

それからの父に関して経過を簡単に述べます。父が勤めておりました中小企業の管財会社は最終的には潰れましたがその2、3年前に別の似たような管財会社に派遣されて立て直すように命じられて同じくこの会社も潰れそうだと仕事に没頭し我々家族と楽しむ余裕がありませんでした。もっぱら母が我々子供の面倒を見ておりました。やはり父は戦前職業軍人であったので身体が鍛えられておりましたのか、朝早くから夜遅くまで働いても丈夫でした。もっとも彼は本当は戦争で死んだ命がラッキーにも与えられたと思っていたのか、黙々と働いておりました。潰れそうな会社であったその管財会社が何かの運が向いてきたのか、高度成長の波に乗り山武の計装会社になり今の”オーテックWという会社に生まれ変わり、ジャスダックに上場し二代目の社長になり70歳になるまで働いておりました。会社を辞めてからは元来無趣味の男だったので、もっぱら家で若いころ大学の医学部に行きたかった時習ったドイッ語を勉強することが唯一の趣味で勉強しておりました。後はテレビで相撲や女子ゴルフの試合を見るのが楽しみでした。父は戦争の話は自分から話はしませんでした。誰かに聞かれたら話をするだけでした。でも仕事を辞めてからは、昔の仲間との交流や座談会にも出席するようになりました。でも長男の私には戦争についての話は自分からは一切しませんでした。 そして6年前96歳で亡くなりました。

死ぬまで頭はしっかりしておりましたが、10歳若い母がその半年前に86歳で亡くなったのでがっくり来たみたいでもう生きる気力がなくなったと、死ぬ前に言っておりました。私の戦中、戦後直後は疎開先の宮城県登米市より東京の笹塚に住み着いて、父の影響で貧しい中にも心(精神は)は豊かであったと思います。今の世の中は子供が親を殺したり、我々昔からは考えられないような事件が勃発しております。戦後70年たって物質的には豊かにはなってきましたが精神的には人間は退歩して見えるようにしか思いません。やはり平和ボケして世の中がおかしくなっているように思えます。

 

私の考え方の変遷

それでは後半の私の考え方あるいは思想の変遷ということに述べたいと思います。終戦後小学生、中学生になったとき私は誰かに親の職業を聞かれたときは、何時もサラリーマンと答えておりました。そして何かの折父が戦前職業軍人であったというときはちょっと困りました。戦前と180度世の中が変わったためそれをどのように私が捉えてよいかわからなかったためです。世の中の価値観が変わったため大体昔の軍人は右翼とみなされ新生日本にとっては軽蔑の眼ざしで見られました。でも、たまにはそれはすごかったですね、とびっくりした眼で見られることもありました。父は戦争に関しては私にほとんど話をしませんでした。もっとも仕事が大変でそれどころではなかったことが本音でした。今考えますとあの戦争は一部の一握りの上層部の軍人が原因で、ほとんどの軍人はただ命令で従って死んでいった人がほとんどで、権力とは如何に恐ろしいことであることが今よくわかりました。そんな訳で高校、大学になっても皆様のように安保反対、授業料値上げ反対との学生運動に積極的になれなかったのは、この辺の父の影があったからではないかと今思います。父の望んでおりました役人になれないで、民間の会社に勤めた私は、段々と世の中がわかってきて少しづつ物の考え方が変わってきました。最初のうちはどうせ資本主義の世の中である以上偉くなって良い生活をしたいと思いながら、仕事をしてきました。高度成長時代に乗って私も昔の社用族の恩恵を大いに蒙りました。でもだんだんと日本はこのままで将来は大丈夫かなと思うようになりました。

 

ヤマト運輸小倉昌男さん

そんな時私が時々口に出す、元ヤマト運輸社長小倉昌男さんの、”経営学W、”私の履歴書Wを読んで考え方が変わりました。親父から引き継いだ潰れそうな運送会社を宅配便という新物で、物流会社ナンバーワンに仕立てたこと事です。でも私が感銘したのはその経営手腕ではなく、そこに流れる人間的な暖かさです。彼の人生は弱い人間を助け、権力との戦いで一生を捧げた事です。詳細はここでは述べませんが、今の安倍政権に対してのヒントとなりそうなのでそこだけちょっと話します。

小倉さん曰く、私の経験からすると、役人は「弱きを挫き、強きを助ける」性格がある。だから、役人と交渉するときは下手に出たらだめだ。論理的に武装をし、強気で立ち向かう必要がある。最善策は裁判で黒白をはっきりさせることである。今の安倍政権はまさにこの状態であります。簡単に言うと憲法違反をして、閣議決定のみで、自衛隊を戦争に巻き込むように進んでおるのです。小倉さんは商売上理屈に合わない、規制緩和をしない役所の当時の橋本運輸大臣を訴えた。どうして安倍首相を憲法違反と訴える人が出ないのか不思議でならない。もっとも平和ボケで、いまのジャーナリストのように言論の報道管制の政府に反論できない人ばかりなのでしょうがないかもね。いつから日本人は腑抜けになったのでしょう。小倉さんみたいな反骨精神を持った人が出ないと、将来子どもが徴兵制で引っ張られても遅いですよ。戦前の治安維持法の下でも命を賭けて政府に抵抗した勇気のある人がいたのに、別に政府に睨まれるぐらいの事で済むぐらいでも何も言えない現代のマスコミ、ジャーナリストよ。小倉さんはまたこのように言っております。政治家はなんでも国民の為と言っておりますがほとんどの政治家はバックに業界団体がついております。国民よりも業界が大切なのです。又大部分の政治家は二世、三世の世襲です。だから頭の悪い低次元の政治家には頼らないと一言っておりました。今国民のために一生懸命に働く骨のある政治家の出現が望まれます。